「西念寺婦人会だより」2009年1月〜12月分 |
2009年3月発行 掲載分 | |
「お風呂の効用」
昨年10月の報恩講で講師の畑辺初代先生は、15年程前に亡くなった大分県の材木商安部克己さんの言葉を紹介してくださいました。 安部さんは「お念仏の利益(りやく)」―浄土真宗の教えを聞くことによって賜わる恩恵―を
とおっしゃったそうです。
というものです。
冷たく強張った「体」を「心」と置き換えてみましょう。
私たちの心は「私の意見こそが正しい」「私の言う通りにすれば物事はすべて上手くいく」という絶え間のない「私が、私が……」の自己主張によってカチカチに「強張り」、「敗けてはならない、勝たなければならない」とあれやこれやの理屈で「厚着」(理論武装)をし、「私」に対する執著(しゅうじゃく)、いわゆる我執の「垢」でビッシリと覆われています。 この喩え話を聞いた時、私は作家五木寛之氏のこんなエピソードを思い出しました。 五木氏が旧友たちと久しぶり会って話が弾んだ時のこと、話題がふと「肩凝り」に及びました。 つまり五木氏の場合は、「肩凝り」が当たり前になっているから肩が凝っていない状態がわからない。 ちょうど私たちの心もこれと同じ状態ではないでしょうか。 お念仏の教えはそんな私たちの「肩が凝りきった」状態を、今月の言葉で言えば「そのように成っている」とまず教えてくださいます。
と諭し、心の「凝り」を解いてくださるのでしょう。 「清貧の人」として有名な良寛禅師(1758―1831)にこんな和歌があります。
ご存知のように良寛さんは禅宗の僧侶でありながら同時に深い念仏の信仰を持った方でありました。
といった数多くの念仏讃嘆の歌を遺しておられます。)
この「おろかなる……」の歌を通して良寛さんはこう私たちに語りかけていてくださる。 (「西念寺婦人会だより」2009年3月号掲載) 〈参考文献〉 |
2009年5月発行 掲載分 |
勝つために 前回の『婦人会だより』の最後に私は、江戸時代の越後(新潟県)出雲崎の禅僧良寛さん(1758―1831)のこんな短歌を紹介しました。
この歌を読んだ時、私は何とも腑に落ちないものを感じました。 「愚かなる身がうれしい」と良寛さんは言うけれど、「愚か」ということは私たちにとって果たして「うれしい」ことなのだろうか、むしろ「うれしくない」ことではないのだろうか、と。 私たちが生きているこの世は間違いなく「競争」の社会です。 悲しいかな、私たちは生まれ落ちたその瞬間から、「負けてはならない。勝たねばならない」と教え込まれて育ちます。 そんな中で「自分が愚かであることがうれしい」などと言えばそれこそ「お前はばかか」と鼻で笑われるのがオチではないでしょうか。 このような世の中で勝ち残っていくためにはどうしても、
のです。 良寛さんはその意味からすれば明らかに「負け組」でした。 出雲崎の名主の家の長男として生まれた良寛さんは名主見習いだった18歳の時に出家して仏門に入ります。(一説によれば良寛さんはこの時すでに結婚しており、妻を離縁しての出家であったそうです。) もともと良寛さんは頭脳明晰で読書好き、内気で優しい性格の子供だったようですが、反面曲がったことの嫌いな、自分の良心に従って行動することしかできない言わば頑固な性格でもあったそうです。 出家後、岡山県玉島(現倉敷市)の禅宗寺院円通寺で修行し、33歳で師匠国仙和尚から「印可の偈」(仏道の悟りを得た証明書)を受け、翌年国仙和尚の死とともに寺を去り諸国を行脚、5年後郷里の越後に帰り、以後74歳で亡くなるまでその地で暮らします。 生涯一寺の住職となることもなく、帰郷後の大半は小さな草庵(つまりは「あばら家」)での貧しい生活でした。 「愚かなる身」というのはそんな良寛さんの一面自嘲ともとれる述懐であります。
若い時分はそれこそ周囲と自分を比較して、相当挫折感や無力感に苦しまれたのではないでしょうか。 ただそんな愚かな良寛さんをと言うべきか、そんな良寛さんだからこそと言うべきか、愛してやまない人々がいたのです。 ある日の夕刻、子供たちと隠れん坊をしていた良寛さんは、日が暮れてみなが帰ってしまった後もまだ隠れ続け、翌朝まだ隠れている良寛さんを見て驚いた人に向かって「静かにしないと子供らに見つかってしまう」と答えたという逸話も伝わっています。 良寛さんは素の自分、ありのままの自分に注がれた周囲の人々の愛情を通して、自分にはたらく阿弥陀さまの願い―言うなれば「賢かろうが愚かであろうが、強かろうが弱かろうが、不器用でばか正直であろうがどうでもよい。そのままのお前が大事で愛しい。助けたい」―に出遇われたので はないでしょうか。 阿弥陀さまの心、それは
という驕り昂ぶった心では決して気づかない、自分の愚かしさ罪深さに泣き、それを素直に認めることができた時、初めて出遇えるものではないでしょうか。 残念なことに人は勝ち負けの世界、比較され評価され続ける世界でしか生きられません。 「比較も不要、評価も無用。お前はお前でよい」という世界に触れることを通して、人は勝ち負けの世界の中で、それこそ愚かなあやまちを繰り返しながらも、安心してわが身の分を尽して生きていく勇気と力を頂くことができるのではないでしょうか。 (「西念寺婦人会だより」2009年5月号掲載) 〈参考文献〉 |
2009年11月発行 掲載分 | ||
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