法話ライブラリー   真宗大谷派 西念寺
 
「西念寺婦人会だより」2009年1月〜12月分
 
 
2009年3月発行 掲載分
 
 

「お風呂の効用」

おしえを聞いて、
そのように成ろうとするけれど、
そのように成っていることを、
おしえに聞くのです。

 昨年10月の報恩講で講師の畑辺初代先生は、15年程前に亡くなった大分県の材木商安部克己さんの言葉を紹介してくださいました。

 安部さんは「お念仏の利益(りやく)」―浄土真宗の教えを聞くことによって賜わる恩恵―を

「喩えるならばお風呂に入るようなものだ」

とおっしゃったそうです。

 お風呂に入って体が暖まってくると、まず体の強張り、凝りがほぐれてくる。
 次に毛穴が開いて垢が自然に浮いてくる。
 そして体が芯からぬくもればポカポカしてあれこれ厚着をする必要もなくなる。

というものです。

 お風呂に入ることなしに強張った体をほぐそうとしてもなかなか大変です。
 力づくで垢を落とそうとすれば皮膚が破れ血が出ます。
 無理に薄着をすれば風邪をひきます。

 冷たく強張った「体」を「心」と置き換えてみましょう。

 私たちの心は「私の意見こそが正しい」「私の言う通りにすれば物事はすべて上手くいく」という絶え間のない「私が、私が……」の自己主張によってカチカチに「強張り」、「敗けてはならない、勝たなければならない」とあれやこれやの理屈で「厚着」(理論武装)をし、「私」に対する執著(しゅうじゃく)、いわゆる我執の「垢」でビッシリと覆われています。
 しかも厄介なことに、私たちは自分の心が垢や厚着によって強張りきっていることにさえ気が付かないでいます。

 この喩え話を聞いた時、私は作家五木寛之氏のこんなエピソードを思い出しました。

 五木氏が旧友たちと久しぶり会って話が弾んだ時のこと、話題がふと「肩凝り」に及びました。
 口々にその辛さを訴える友人たちに対して五木氏は「自分は『肩凝り』とはどんなものかわからない」と語ったそうです。
「肩凝りを知らないなんて羨ましい話だ」と、ある友人が五木氏の肩に触ってみてビックリ。
 五木氏の肩は凝っていないどころか、これ以上ないほどにカチンカチンだったそうです。
 五木氏はその友人に「お前のは肩が凝っていないんじゃなくて肩が凝っていることさえ分かっていないんだ」と大笑いされたのだそうです。

 つまり五木氏の場合は、「肩凝り」が当たり前になっているから肩が凝っていない状態がわからない。
 肩が凝っていない状態を知らないから肩凝りがどういうものだかわからない、というわけです。

 ちょうど私たちの心もこれと同じ状態ではないでしょうか。
 強張っていない、ほぐれた状態を知らないから「これが普通だ」と思い込んでいる。
 本人に自覚はないけれど心(あるいは体)の方は間違いなく悲鳴を上げているのでしょう。

 お念仏の教えはそんな私たちの「肩が凝りきった」状態を、今月の言葉で言えば「そのように成っている」とまず教えてくださいます。
 そして例えば、

「忿(いかり)を絶ち瞋(いかり)を棄てて、人の違(たが)うを怒らざれ。
 人皆心あり。心おのおの執(と)れること有り。
 彼是(よみ)すれば我非(あしみ)す。我是すれば彼非す。
 我必ず聖(ひじり)に非(あら)ず。彼必ず愚かに非ず。
 共に是(これ)凡夫(ただびと)ならくのみ。
 是(よ)く非(あ)しき理(ことわり)、詎(たれ)か能(よ)く定むべけん。」
(聖徳太子『十七条憲法』)

(取意)
人は誰も己れの判断に従い、是非善悪を争い、自分が正しく相手は間違っていると決めつける。
しかし自分が常に賢く正しいわけでもなく、相手が常に愚かで間違っているわけでもない。
自分も他人も共に間違いを犯す「凡夫」(ぼんぶ・ただの人)に過ぎない。
だから自分と意見が違うからといってそう人のことを怒りなさんな。

と諭し、心の「凝り」を解いてくださるのでしょう。

「清貧の人」として有名な良寛禅師(1758―1831)にこんな和歌があります。

「おろかなる 身こそなかなか うれしけれ
   弥陀の誓いに あうと思えば」

 ご存知のように良寛さんは禅宗の僧侶でありながら同時に深い念仏の信仰を持った方でありました。
(この他にも、

「草の庵(いお)に 寝てもさめても 申すこと
   南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」
「良寛に 辞世はあるかと 人問わば
   南無阿弥陀仏と いうと答えよ」

といった数多くの念仏讃嘆の歌を遺しておられます。)

(私は自分の身ひとつを持て余す愚か者だ。
 もう少し世間を上手く渡る器量や才覚に恵まれていたらそれなりの出世や名誉、財産も手にできたかも知れないが今の私はしがない乞食坊主でしかない。
 だがこんな私でさえも「必ず助けずにはおかない」と誓ってくださる阿弥陀仏がおられる。
 いや、むしろ自分の力では何ひとつまともにできない愚かな私だからこそ、そんな私にまで愛情を注いでくださる阿弥陀仏のその願い(本願)に気付くことができたのだ。
 その阿弥陀さまの本願に照らされているからこそ、私は愚かなあやまちを繰り返しながらも、安心してわが身の分を尽して生きていくことができるのだ。)

 この「おろかなる……」の歌を通して良寛さんはこう私たちに語りかけていてくださる。
 私にはそう思えてならないのです。

(「西念寺婦人会だより」2009年3月号掲載)

〈参考文献〉
吉野秀雄『東洋文庫 良寛歌集』(平凡社・1992)

 
 
2009年5月発行 掲載分
 
 
勝つために
  生まれてきたわけではない。
負けるために
  生まれてきたのでもない。
              (田口 弘)

 前回の『婦人会だより』の最後に私は、江戸時代の越後(新潟県)出雲崎の禅僧良寛さん(1758―1831)のこんな短歌を紹介しました。

「おろかなる 身こそなかなか うれしけれ
  弥陀の誓いに あうと思えば」

(私が愚かな身であるということはかえってうれしいことだ。
 私が愚か者であるからこそ阿弥陀さまの「必ずお前を助ける」という誓いに気がつくことができたのであるから。)

 この歌を読んだ時、私は何とも腑に落ちないものを感じました。

「愚かなる身がうれしい」と良寛さんは言うけれど、「愚か」ということは私たちにとって果たして「うれしい」ことなのだろうか、むしろ「うれしくない」ことではないのだろうか、と。

 私たちが生きているこの世は間違いなく「競争」の社会です。
(言葉を換えれば、絶えず誰かと「比較」され「評価」される社会だとも言えます。)

 悲しいかな、私たちは生まれ落ちたその瞬間から、「負けてはならない。勝たねばならない」と教え込まれて育ちます。
 家庭の中、兄弟や夫婦の間でもそうですし、一歩外に出ればなおさらです。
 学校で、会社で、「勝たねばならぬ」と肩肘張って生きていかなければなりません。
 実際誰ひとりとして「負けよう」「負けたい」と思って生きている人はいません。
 新聞・マスコミが「格差社会」あるいは「勝ち組・負け組」といった言葉を連発し始めてからすでに大分経ちます。
 それどころか今や個人も集団も、地方も国も、「いかにして生き残るか」としのぎを削る時代になりました。

 そんな中で「自分が愚かであることがうれしい」などと言えばそれこそ「お前はばかか」と鼻で笑われるのがオチではないでしょうか。

 このような世の中で勝ち残っていくためにはどうしても、

「愚かであってはいけない(賢くなければならない)し、
 弱くてはいけない(強くなければならない)し、
 要領が良くなくてはいけない(不器用ではいけない)し、
 ばか正直ではいけない(ずるくもなければならない)」

のです。

 良寛さんはその意味からすれば明らかに「負け組」でした。
 負け続けた人生といってもいいでしょう。

 出雲崎の名主の家の長男として生まれた良寛さんは名主見習いだった18歳の時に出家して仏門に入ります。(一説によれば良寛さんはこの時すでに結婚しており、妻を離縁しての出家であったそうです。)

 もともと良寛さんは頭脳明晰で読書好き、内気で優しい性格の子供だったようですが、反面曲がったことの嫌いな、自分の良心に従って行動することしかできない言わば頑固な性格でもあったそうです。
 そんな良寛さんが代官と住民の間を要領よく調整していく名主の役目をこなせるわけがなく、見習いになった早々失敗とトラブルの連続だったそうです。

 出家後、岡山県玉島(現倉敷市)の禅宗寺院円通寺で修行し、33歳で師匠国仙和尚から「印可の偈」(仏道の悟りを得た証明書)を受け、翌年国仙和尚の死とともに寺を去り諸国を行脚、5年後郷里の越後に帰り、以後74歳で亡くなるまでその地で暮らします。

 生涯一寺の住職となることもなく、帰郷後の大半は小さな草庵(つまりは「あばら家」)での貧しい生活でした。
(家財道具といえば布団ぐらいしかなく、それすらも夜中に泥棒が入ったときに「手ぶらで帰すのは気の毒だ」と寝返りを打つふりをして盗らせてやったという逸話すらあります。)

「愚かなる身」というのはそんな良寛さんの一面自嘲ともとれる述懐であります。

「私は自分の身一つを持て余す愚か者だ。
 もう少し世間を上手く渡る器量や才覚に恵まれていたら実家を出ることもなく、僧侶の世界でもそれなりの出世や名誉、あるいは財産も手にできたかも知れない。
 しかし今の私はしがない乞食坊主でしかない。」

 若い時分はそれこそ周囲と自分を比較して、相当挫折感や無力感に苦しまれたのではないでしょうか。

 ただそんな愚かな良寛さんをと言うべきか、そんな良寛さんだからこそと言うべきか、愛してやまない人々がいたのです。
 その代表が郷里越後の子供たちでした。

 ある日の夕刻、子供たちと隠れん坊をしていた良寛さんは、日が暮れてみなが帰ってしまった後もまだ隠れ続け、翌朝まだ隠れている良寛さんを見て驚いた人に向かって「静かにしないと子供らに見つかってしまう」と答えたという逸話も伝わっています。

 良寛さんは素の自分、ありのままの自分に注がれた周囲の人々の愛情を通して、自分にはたらく阿弥陀さまの願い―言うなれば「賢かろうが愚かであろうが、強かろうが弱かろうが、不器用でばか正直であろうがどうでもよい。そのままのお前が大事で愛しい。助けたい」―に出遇われたので はないでしょうか。

 阿弥陀さまの心、それは

「人の助けなど要らない。
 自分は充分に賢いし強い。
 自分一人の力でスイスイと悠々と世の中を渡っていけるし、むしろ私の言う通りにしていく方が世の中(家の中)うまくいく。」

という驕り昂ぶった心では決して気づかない、自分の愚かしさ罪深さに泣き、それを素直に認めることができた時、初めて出遇えるものではないでしょうか。
 まさしく「おろかなる身」だからこそ「弥陀の誓いにあ」えたのではないでしょうか。

 残念なことに人は勝ち負けの世界、比較され評価され続ける世界でしか生きられません。
 しかしその中で人は苦しみ傷つき疲れ果てます。

「比較も不要、評価も無用。お前はお前でよい」という世界に触れることを通して、人は勝ち負けの世界の中で、それこそ愚かなあやまちを繰り返しながらも、安心してわが身の分を尽して生きていく勇気と力を頂くことができるのではないでしょうか。

(「西念寺婦人会だより」2009年5月号掲載)

〈参考文献〉
吉野秀雄『東洋文庫 良寛歌集』(平凡社・1992)
安藤英男『良寛 ―逸話でつづる生涯―』(すずき出版・1986)
〈参考ウェブサイト〉=クリックでジャンプできます=
『みつりんの良寛さまの部屋』

 
 
2009年11月発行 掲載分
 

危機を転機に
 

   「なぜ」という「問い」。

 先日お勤めしたある葬儀でのことです。
 亡くなったのは産まれたばかりの女の赤ちゃんで、先天性の疾患のために生後数時間の命でした。

 当初「身内だけで」とのお話でしたが、「せめて見送りを」とご両親の友人が大勢集まられ、葬儀、荼毘(火葬)、初七日法要と続きました。

 初七日のお勤めの後、憔悴したご様子のご遺族の前でお話をさせていただきました。

 あらためてお悔やみを申し上げた後、私はこう切り出しました。

「今皆さんの胸中を駆け巡っているのはおそらく『なぜこの児(こ)がこんな目に…』、『なぜ数時間しか…」という思いではありませんか。」

こうお尋ねした時、その場におられた皆さんが「その通りです」と頷かれました。

「いったいなぜ」「どうしてこんなことに…」

 釈尊の面前で韋提希夫人が発した

「我、宿(むかし)何の罪ありてか、この悪子を生ずる」(『観無量寿経』)

の語を待つまでもなく、有史以来どれだけの人が、突如自身を襲った過酷な出来事に、「理不尽だ」と嘆きながら、この言葉を口にしたでしょう。
一人の人の人生、他ならぬこの私自身を振り返ってみても、いったい何度この言葉を繰り返したことでしょう。

 ご遺族の反応を見、「さもありなん」との思いを新たにしながら、私はこう続けました。

「でもこの『なぜ』という問いに決まった答えはないのです。
 これから皆さんが見つけていかなければならないのです。
 『運命』とか『寿命』とかいう言葉で『仕方がない』『あきらめなければいけない』と自分に言い聞かせてみても、納得などできるはずがありません。
 これからの皆さんがどういう生き方をするかということを通して、その『答え』を出していかなければならないのです。」


   生き方で「答え」を出す。

 この言葉に続いて私は、外国のある孤児院を支援しておられる一人のお母さんの話を紹介しました。

 その方は、息子さんを3歳の時に事故で亡くされ、自殺を考えるほどの苦しみの中で、まるで亡くなった息子さんに誘いざな)われるかのようにその活動を始められたのだそうです。
 そのお母さんにとって、孤児たちを支援することは、まさしく息子さんが与えてくれた仕事、新しい生き方だったのです。


「その活動に懸命に取り組むことを通して、その方は息子さんと一緒に生きていこうとされているのではないか。
 亡くなった息子さんを自分の胸の中で生かし続けるために、3年しか生きられなかった息子さんの人生が決して無駄ではなかったことを証明するために、言い換えるならば、このお母さんは「なぜこの子は…」という「問い」に自らの新しい生き方を通して「答え」を出していこうとされたのではないでしょうか 」と。

 話の意図がうまく伝わるか、誤って受け取られないか、正直恐る恐る話していたのですが、幸い皆さん真剣に、特に赤ちゃんのお母さんが真っ直ぐにこちらを見て聞いていて下さったので、それに勇気づけられながら話を続けました。

 赤ちゃんのお父さんは学校の教員でしたので、次のようにもお話しました。

「今回の出来事で、命がどれほど脆く儚く、そしてかけがえのないものであるかを知られたと思います。
 また、多くの方々がお子さんの死を深く悲しみ、同時にあなた方のことを心配しておられました。
 命というのはポツンとただ一つ孤立して在るのではなく、人々の思いの中、響き合う思いの中に在るものです。
 どうか生徒たちに、知識だけでなく、こういった命の事実をも伝えてあげて下さい。」

そして最後に、

「繰り返しになりますが、わずか数時間のお嬢さんの人生が、死が無駄ではなかったことを証明していく責任があなた方ご両親にはあります。
またそれができるのはあなた方だけなのですよ。

ただし、『今すぐに』とか『泣くな』とかは申しません。
泣くだけ泣いて、涙が止まったら歩き始めて下さい。」

と申し上げて話を終えました。


   「我以外皆師也」(吉川英治)

 自動車で葬儀場を後にする私をご両親が見送って下さいました。
 斎場で滂沱の涙を流しておられた顔はもうそこにはありませんでした。
 その目に何かしらの「決意」を感じたのは私の欲目だったかもしれませんが…。

 作家吉川英治に「我以外皆師なり」という言葉があります。
人はあらゆる人あらゆる出来事から何かしら学べるし、学ぼうとしなければならない、という意味です。

 待望の愛娘を喪ったご両親の悲しみが簡単に癒えるはずはありません。

 でもこの出来事を通してご両親が何かを学び、これまでの人生を問い直し、新しい生き方を始めることができたとしたら、この赤ちゃんはご両親に身(死)をもってそれを教えてくれたかけがえのない師(知識(ぜんちしき))となるのではないでしょうか。

 あらゆる人あらゆる出来事から学び、「危機」を「転機」としていく。
 それが、親鸞聖人が、いたずらに死や不幸に怯えそれを忌避して生きる生き方にえらんで、「むなしく生死(しょうじ)にとどまる」ことのない「無碍むげ)の一道」として私たちに教えて下さった生き方なのではないでしょうか。

(「西念寺婦人会だより」2009年11月号掲載)


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