「西念寺婦人会だより」2006年1月〜6月分 |
2006年2月発行 掲載分 | |
「共命鳥」が教えるもの 人間の顔をした頭が2つで体が1つ、2つの頭が1つの体(命)を共有していることから「共命鳥」と呼ばれるこの鳥は、『阿弥陀経』においては、極楽浄土において白鳥、孔雀、オウム等の種々の美しい鳥と共に一日六回、美しい声で鳴き、仏の教えを説き述べるその声は、聞く者をして皆自然に仏・法・僧の三宝を敬う心を起こさせる、と説かれています。※1 しかし、『仏本行集経』によれば、昔この鳥は雪山(せっせん・ヒマラヤ)に棲んでおり、2つの頭にはそれぞれカルダ、ウパカルダという名がありました。 きわめて近しい関係の者同士が傷つけ合い殺し合う「共命鳥」。それはまさしく「この世」を生きる私たちの姿に他なりません。 しかし、このように敵対関係にある
2つの頭が、極楽浄土では争うこともなく、人を仏法に導くという目的のもと、互いに役割分担しながら共存しているのです。 では、「この世」では敵対し合わなければならなかった2つの頭がなぜ「浄土」では共存できるのでしょうか。 『阿弥陀経』には極楽浄土のこれら様々の鳥は、罪の報いとして鳥に生まれたのではなく、みな阿弥陀仏が仏法を説き広めるために姿形を変えて現わされたものである、と説かれています。※2 しかし私は思うのです。 そこが阿弥陀仏が今現在法を説いておられる場所だから、たえず仏の説法を耳にし続けていられる場所だからこそ、共命鳥は互いを認め、尊重し合うことができるのではないでしょうか。 仏の教えが共命鳥、つまりは私たちに何を伝えようとしているのか、仏の教えを聞くことによって私たちに何が見えてくるのかといえばそれは他でもない自分自身の姿、他によって支えられ生かされていながらそれに気づかず、踏みつけて愧(は)じることのない私たちの在り方です。 山崎ヨンさんは、
と言われました。
山崎さんが「それを忘れて生きとる」とおっしゃるように、私たちは自己中心・わがまま勝手なものの見方から自由ではあり得ません。 親鸞聖人はこうおっしゃられました。
しかし、自分と比較して他人を羨み憎む、もしくは驕り見下す対象としか見ない私たちの中に、仏の教えを聞くことによってもう一つ別の見方が生まれてくるのではないでしょうか。 人間関係で行き詰まった時、他人のアドバイスによって自分の間違いに気づかされる。 仏の教えにふれて
と深く自分を愧じた時に見えてくるもの。
これが親鸞聖人の持たれた人間観ですが、この「凡夫」「愚者」とは決して人間を侮蔑する言葉ではなく、むしろそのような私たちをこそ救おうとする如来の本願に対する聖人の深い信頼を示すものであり、それと同時に、人が人として歩む実人生の厳しさとそこで人が懐く苦悩に対する聖人の共感、尊敬と信頼を示すものではないでしょうか。 聖人はある弟子が師弟関係を解消して自分の元を離れていった時、このことは個人的な人間関係の解消であって、これが即その弟子の往生が不可能になったことを意味するものではない、と言われました。※3 これが山崎さんの言われる
ということではないでしょうか。 人を出し抜き、蹴落とすことが美徳とされる現代。 (「西念寺婦人会だより」2006年2月号掲載) 〈参考文献〉
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2006年3月発行 掲載分 |
「常不軽」 鳩摩羅什(くまらじゅう)訳『妙法蓮華経』「常不軽菩薩品(じょうふきょうぼさつ・ぼん)」に「常不軽菩薩」という名の比丘(びく・男性の出家修行者)の物語が説かれています。 はるか昔のことです。過去仏(釈尊以前に世に出られた仏)である威音王仏(いおんおう・ぶつ)という仏が亡くなられてから500年以上経った「像法(ぞうぼう)」※1の頃、皆から「常不軽」と呼ばれた1人の比丘がおりました。 この比丘は修行者でありながら説法もせず、お経を読むこともしませんでした。
と、語り、褒め讃えたのです。 しかし、この比丘の『私はあなた方を未来の仏として敬う』という言葉を聞いた修行者たちはみな一様に、
と怒り、ののしり、それでも礼拝をやめないこの比丘に、時には木や石を投げつけさえしました。 (ただし、サンスクリット語原典では「常不軽」は「サダー=パリブータ(常に軽蔑される男・常に軽んじられる者
)」とあります。
この比丘はやがて威音王仏の説き遺した『法華経』の説法を聞いて六根清浄を得、無数の仏に値(まみ)え、讃嘆供養し、無数の衆生に『法華経』の教えを説き、それらの功徳によって仏とな
ります。 このエピソードでは常不軽菩薩を釈尊の前世としていますが、私はむしろ釈尊その人がまさに「常不軽(常に軽んじない)」の人ではなかったかと思うのです。 35歳の成道(じょうどう・悟りを開く)、初転法輪(しょてんぼうりん・最初の説法)から80歳の入滅(にゅうめつ・死)までの45年間の伝道の間、最初の弟子アンニャータ・コーンダンニャ(阿若憍陳如・あにゃきょうちんにょ、了本際)から最後の弟子スバッタ
(須跋陀)まで、古代インドの無数の人々が釈尊の前に
立ち現れ、苦難に満ちたその前半生を語っていきました。
その語りの一々に耳を傾けている間、語り終えた人々に向かって法を説こうとする直前のしばしの沈黙の間、釈尊はそれらの人々を『未来の仏よ』と拝んでおられたのではないでしょうか。
何かを語り、伝えるそれ以前に、その人の深い悲しみの前に釈尊ご自身が立ちすくむ。立ち尽くす。
偏袒右肩(へんだんうけん)※2、長跪合掌(じょうきがっしょう)※3、接足作礼(せっそくさらい)※4、右繞三帀(うにょうさんぞう)※5……。 人間を他の動物に択んで「知性・叡知あるもの」と定義付けた「ホモ・サピエンス(Homo sapiens:ラテン語、「知性人」「叡智人」の意)という語がありますが、ユダヤ人強制収用所を経験した精神分析医ヴィクトール・フランクル (1905−1997)は、それに対して「人間」を「ホモ・パティエンス(Homo patiens:「苦悩に耐える人」「忍苦の人」「苦悩人」)」と定義しました。
人間を人間(「ホモ・パティエンス」)として拝んで下さる釈尊。 そして、私たちの敬愛する法然上人、親鸞聖人、蓮如上人といった方々もまた同様に「常不軽の人」ではなかったでしょうか。
法然上人の「御影」(ごえい・肖像画)はどれも頭を左に少し傾けているように描かれています。(下部画像参照) |
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また蓮如上人の『御文』に拠れば、
親鸞聖人は自分の下に集まった門弟たちを「わが弟子」ではなく「御同朋・御同行(同じ念仏の法につらなる朋友)」と呼び、「かしずいて」※6(敬う、大切にする)おられたと言います。 親鸞聖人をそのような方と理解し仰がれた蓮如上人もまた、そのような方であられたのでしょう。
これらの方々が「常不軽の人」となっていかれたその根源には、まぎれもなく人生に苦悩するわれわれを悲しみ痛み、拝み、「南無阿弥陀仏」という言葉を選び与えた阿弥陀仏の「常不軽」の心、
という「声」との出遇いがあったのはないでしょうか。 「阿弥陀仏」とは、まさしくこのような生きとし生けるものを拝む「心」そのものであり、その「心」がどこにあるかといえば、それはまぎれもなくそれに触れた人の「心」(信心)にあるのでしょう。 もしかしたら、釈尊ご自身がこの「常不軽」の「阿弥陀」の心に出遇われたからこそ、仏陀釈尊、釈迦牟尼仏となっていかれたのかも知れません。
(「西念寺婦人会だより」2006年3月号掲載) 〈参考文献〉
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2006年5月発行 掲載分 |
「芥子の種」
苦労したからこそ、
「苦労が身に着く」という言葉があります。
自分自身のことはさておき、私の周りにも、ご苦労続きの半生だったにもかかわらずそのお顔はいつもにこやかで、口を開けば謙虚で思いやりに満ちた言葉が溢れてくる、といった方がおられます。(しかしよく注意してみると、眼だけは、いつもどこか悲しそうです。)
誰1人苦労のない人生などおくってはいないはずなのに、なぜこんな違いが生じてくるのでしょうか。
今から2500年ほど前、古代インド、コーサラ国の都シュラーヴァスティー(舎衛城)の祇園精舎で布教して
おられた釈尊の前に1人の婦人が現われました。
狂女の名はキサーゴータミー。
狂女は釈尊に背中の子供(彼女の息子)の薬をくれるように懇願しました。 この女性が釈尊の前に立ち現われるのには以下のような経緯がありました。
貧しい家に生まれた彼女はそれゆえキサー(=やせっぼちの)・ゴータミーとあだ名されていました。 悲しみの余り精神に異常をきたした彼女は、
と、薬を求めて町の家々を訪ねて回っていたのです。 いくら「薬を下さい」と言っても死骸を背負った狂女をまともに相手にする家などなく、内心同情する人はあったにせよ、どの家でも 邪険に追い払われた彼女は、ある人の勧めに従って藁にもすがる思いで釈尊を訪ねてきたのでした。 |
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彼女の話を聞いた釈尊はこうお答えになりました。
初めて薬をくれるという人に出逢ったキサーゴータミーは喜んで町へ戻って行きました。
そして数日後、彼女は再び釈尊の前に現れました。
「なぜ自分(の子)だけがこんなことに」と、悲しみの中に独り閉ざされていた彼女の心は「無常」を知る、言葉を換えれば人が人であること、人として生きることの悲しみにふれ
ることによって開かれ、それまで決して認めようとしなかった、認めることのできなかったわが子の死を受け容れたのです。 昨春のJR福知山線の大事故で一人息子さんを亡くされたお父さんが事故直後、
と発言なさったそうです。
第三者ならばいざ知らず、事故の当事者(被害者)である人からこんな温かい、いたわりに満ちた言葉が発せられるとは。
人は時として独りの悲しみに執われ殻に閉じ籠ります。 自分にそれができるとかできないとかいう以前に、そんな生き方があることだけは忘れないでいられたら、と私は思うのです。 (「西念寺婦人会だより」2006年5月号掲載) 〈参考文献〉 |
2006年11月発行 掲載分 |
「大悲」の心
前掲の文章において筆者の亀井鑛(こう)先生は、阿弥陀如来の「大悲」とは「目に涙をいっぱい浮かべながら、私たちに対して『そうでないんだ。間違っているんだよ』と呼びかけ、首を横に振られる」お心、「非ずの心」であるとおっしゃいます。 仏教において「あわれみ」を意味する「悲」という文字はよく、「いつくしみ」を意味する「慈」とワンセットで、「慈悲」という言葉で用いられます。 手元の仏教辞典(中村元『仏教語大辞典』)を紐解けば、
とありますし、中国の古い字典(『広韻』)によれば、漢字それ自体の意味は「慈」はイコール「愛」、「悲」はイコール「痛」であると解説されています。 つまり仏教が伝わった中国では、人に楽を与えようとする心とは人を慈しみ愛する「慈」の心であり、人の苦しみを抜こうとする心は人を哀れみ悲しみ痛む「悲」の心である、と理解されたのです。 この「慈悲」が、仏教発祥の地である古代のインドでどのように理解されていたのかと言えば、慈の原語である「マイトリー」は「最高の友情」を、「悲」の原語である「カルナー」は「嘆き、呻(うめ)き」を意味する言葉だったそうです。 ちなみに沖縄県地方の方言(島言葉・うちなーぐち)に「ちむぐりさ」という言葉があるそうです。
「ちむ」とは「肝(きも)」を意味し、「ぐりさ」とは「苦しさ」を意味するのだそうです。 インターネットでこの言葉を検索したところ、あるウェブサイトでは、
という沖縄の人の言葉が紹介されており、また、あるサイトではこれを、
と解説してありました。 親鸞聖人御製作の「正信偈」※によれば、阿弥陀如来はその因位(いんに・悟りを開く以前の修行者の位)である法蔵菩薩の時代、師匠である世自在王仏の説法によって二百一十億の仏の世界とそこに暮らす人々の生き様をつぶさに御覧になり、どうしたらそれらすべての人々の苦を抜くことができるかを「五劫(ごこう)」という永遠にも等しい長い長い時間思惟し抜かれたと
言います。
という誓い(本願)、ひいては
という一言(六字の名)として結実したのです。 尾田武雄氏(富山県砺波市在住)の研究報告によれば富山県には、肉付きの良い福々しい仏様の姿ではなく、ガリガリにやせ細り、骨と皮ばかりの骸骨同然の姿の石仏が「法蔵菩薩五劫思惟像」として、現在もなお数多く残されているそうです 。 (「西念寺婦人会だより」2006年11月号掲載) 〈参考文献〉 ※「正信偈」法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所(法蔵菩薩の因位の時、世自在王仏の所にましまして、諸仏の浄土の因、 国土人天の善悪を覩見して、無上殊勝の願を建立し、希有の大弘誓を超発せり。 |
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