法話ライブラリー   真宗大谷派 西念寺
 
「西念寺婦人会だより」2006年1月〜6月分
 
 
2006年2月発行 掲載分
 
 

「共命鳥」が教えるもの
 

 NHKのTVシリーズ「新シルクロード」でも取り上げられたのですが、鳩摩羅什(くまらじゅう)漢訳の『阿弥陀経』に「共命鳥(ぐみょうちょう)」という空想上の鳥が登場します。

 人間の顔をした頭が2つで体が1つ、2つの頭が1つの体(命)を共有していることから「共命鳥」と呼ばれるこの鳥は、『阿弥陀経』においては、極楽浄土において白鳥、孔雀、オウム等の種々の美しい鳥と共に一日六回、美しい声で鳴き、仏の教えを説き述べるその声は、聞く者をして皆自然に仏・法・僧の三宝を敬う心を起こさせる、と説かれています。※1

 しかし、『仏本行集経』によれば、昔この鳥は雪山(せっせん・ヒマラヤ)に棲んでおり、2つの頭にはそれぞれカルダ、ウパカルダという名がありました。
 ある時、自分の眠っている間にカルダが美味しい果実を食べたのを知ったウパカルダは大変に怒り、妬み、復讐の心を起こし、「今度はカルダが眠っている間に私が果実を食べてやる」と毒の実をそれと知りつつ食べ、ついには両頭とも死んでしまうのです。
 カルダは何も美味しい実を独り占めしようと思ったわけではなく、眠っているウパカルダを起こすのが気の毒でもあり、自分が食べることでウパカルダの栄養にもなるからと、善かれと思っての行為だったのですが、結果はまったく逆になったのです。
  カルダは釈尊、お釈迦さまの前世であり、ウパカルダは釈尊の従弟であり弟子でありながら釈尊を羨み妬み、憎しみの余りついには殺そうとまでした提婆達多(ダイバダッタ)の前世である、と『仏本行集経』には説かれています。

 きわめて近しい関係の者同士が傷つけ合い殺し合う「共命鳥」。それはまさしく「この世」を生きる私たちの姿に他なりません。

 しかし、このように敵対関係にある 2つの頭が、極楽浄土では争うこともなく、人を仏法に導くという目的のもと、互いに役割分担しながら共存しているのです。
(ちなみに共命鳥の鳴き声は「他を滅ぼす道は己を滅ぼす道、他を生かす道こそ己の生かされる道」と説いているとも言われます。)

 では、「この世」では敵対し合わなければならなかった2つの頭がなぜ「浄土」では共存できるのでしょうか。

 『阿弥陀経』には極楽浄土のこれら様々の鳥は、罪の報いとして鳥に生まれたのではなく、みな阿弥陀仏が仏法を説き広めるために姿形を変えて現わされたものである、と説かれています。※2

 しかし私は思うのです。
 共命鳥が殺し合わないで済むのはそこが阿弥陀仏の居られる「浄土」だからではないか、と。

 そこが阿弥陀仏が今現在法を説いておられる場所だから、たえず仏の説法を耳にし続けていられる場所だからこそ、共命鳥は互いを認め、尊重し合うことができるのではないでしょうか。
(『大無量寿経』『阿弥陀経』等によれば、「極楽浄土」は住み心地の良い単なるユートピアではなく、理想の「精舎」(しょうじゃ)、仏道修行の場として描かれています。)

 仏の教えが共命鳥、つまりは私たちに何を伝えようとしているのか、仏の教えを聞くことによって私たちに何が見えてくるのかといえばそれは他でもない自分自身の姿、他によって支えられ生かされていながらそれに気づかず、踏みつけて愧(は)じることのない私たちの在り方です。

 山崎ヨンさんは、

「自分のことは自分で見えんもんや。
 自分を見るときゃ如来さんの眼いただかんと見えんもんや。」

と言われました。
 そしてこうも続けられました。

「自分を見る目は相手を受け入れる目や。」
「その眼をいただくと、向こうさんと変わらん同じ者が、ここに居るだけや。
 それが一番大事なことなんやけど、人間はそれを忘れて生きとるんやねえ。」

 山崎さんが「それを忘れて生きとる」とおっしゃるように、私たちは自己中心・わがまま勝手なものの見方から自由ではあり得ません。
 隣人を「欠点やアラの多い耐え難い愚か者」だとは見ても、自分の眼の方が曇っているなどとは夢にも思いません。
 そしてそのような見方から生涯離れることはできません。

 親鸞聖人はこうおっしゃられました。

「凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとえにあらわれたり。」(『一念多念文意』)

 しかし、自分と比較して他人を羨み憎む、もしくは驕り見下す対象としか見ない私たちの中に、仏の教えを聞くことによってもう一つ別の見方が生まれてくるのではないでしょうか。

 人間関係で行き詰まった時、他人のアドバイスによって自分の間違いに気づかされる。
 その人に対する自分の偏った見方を反省させられ、そこから新しい展開が始まる。
 そういった経験を皆さんお持ちではないでしょうか。

 仏の教えにふれて

「自分には何も見えていなかった。
 わかったつもりになっていただけだった」

と深く自分を愧じた時に見えてくるもの。
 それは、我も人も等しく「凡夫(ぼんぶ)」―生きることに迷い苦しみ、躓き、間違える存在である。
「勝ち組」(成功者、金持ち)も「負け組」(失敗者、貧乏人)も、男も女も。老いも若きも、人はみな一人の例外もなく、阿弥陀仏から大悲され、その本願に出遇わねば救われない、人生を虚しいまま終える他ない「愚か者」であるという人間理解です。

「「凡夫」は、すなわち、われらなり。本願力を信楽するをむねとすべしとなり。(中略)
 かかるあさましきわれら、願力の白道を一分二分、ようようずつあゆみゆけば、無碍光仏のひかりの御こころにおさめとりたまうがゆえに、かならず安楽浄土にいたれば、弥陀如来とおなじく、かの正覚のはなに化生して、大般涅槃のさとりをひらかしむるをむねとせしむべしとなり。」(『一念多念文意』)

 これが親鸞聖人の持たれた人間観ですが、この「凡夫」「愚者」とは決して人間を侮蔑する言葉ではなく、むしろそのような私たちをこそ救おうとする如来の本願に対する聖人の深い信頼を示すものであり、それと同時に、人が人として歩む実人生の厳しさとそこで人が懐く苦悩に対する聖人の共感、尊敬と信頼を示すものではないでしょうか。

  聖人はある弟子が師弟関係を解消して自分の元を離れていった時、このことは個人的な人間関係の解消であって、これが即その弟子の往生が不可能になったことを意味するものではない、と言われました。※3

 これが山崎さんの言われる

「自分が見えると相手が受け入れられる」
「向こうと変わらぬ者がここに居る」

ということではないでしょうか。

 人を出し抜き、蹴落とすことが美徳とされる現代。
 今日ほど人間を役に立つか立たないかではなく、「人間」として尊重できる「智慧」が求められている時代はないのではないでしょうか。

 (「西念寺婦人会だより」2006年2月号掲載)

〈参考文献〉
『仏教聖典』(仏教伝道協会・1963)
松本梶丸『わが心のよくて、殺さぬにはあらず』(柏樹社・1991)
NHKスペシャル 新シルクロード3』(NHK出版・ 2005)
畝部俊英「「共命鳥」研究余滴」(『在家仏教』(在家仏教協会)2003年5月号)
 

※1『阿弥陀経』

「また次に、舎利弗(しゃりほつ)、かの国には常に種種の奇妙雑色の鳥あり。白鵲(びゃつこう)・孔雀・鸚鵡・舎利(しゃり)・迦陵頻伽(かりょうびんが)・共命の鳥なり。このもろもろの衆鳥、昼夜六時に和雅(わげ)の声を出だす。その音、五根(ごこん)・五力(ごりき)・七菩提分(しちぼだいぶん)・八聖道分(はっしょうどうぶん)、かくのごときらの法を演暢(えんちょう)す。その土の衆生、この声を聞き已りて、みなことごとく仏を念じ、法を念じ、僧を念ず。」

※2『阿弥陀経』

「舎利弗、汝、この鳥は実にこれ罪報の所生なりと謂うことなかれ。所以は何(いか)ん。かの仏国土には三悪趣(さんまくしゅ)なければなり。舎利弗、その仏国土には、なお三悪趣の名なし。何にいわんや実にこのもろもろの衆鳥あらんや。みなこれ阿弥陀仏、法音をして宣流(せんる)せしめんと欲して、変化(へんげ)して作(な)したまうところなり。」

※3『歎異抄』第6条

「つくべき縁あればともない、はなるべき縁あれば、はなるることのあるをも、師をそむきて、ひとにつれて念仏すれば、往生すべからざるものなりなんどいうこと、不可説なり。如来よりたまわりたる信心を、わがものがおに、とりかえさんともうすにや。かえすがえすもあるべからざることなり。」

 
 
 
2006年3月発行 掲載分
 
 

「常不軽」
   
―「人間」を拝んだ釈尊―
 

 鳩摩羅什(くまらじゅう)訳『妙法蓮華経』「常不軽菩薩品(じょうふきょうぼさつ・ぼん)」に「常不軽菩薩」という名の比丘(びく・男性の出家修行者)の物語が説かれています。

  はるか昔のことです。過去仏(釈尊以前に世に出られた仏)である威音王仏(いおんおう・ぶつ)という仏が亡くなられてから500年以上経った「像法(ぞうぼう)」※1の頃、皆から「常不軽」と呼ばれた1人の比丘がおりました。

 この比丘は修行者でありながら説法もせず、お経を読むこともしませんでした。
 しかしその代わりこの比丘は、修行者仲間を見 ると必ず、それが男であれ女であれ、出家修行者であれ在家信者であれ、どんな相手であろうと等しく合掌礼拝し、

「われ深く汝等を敬う。
 敢えて軽(かろ)しめ慢(あなど)らず。
 所以は何(いか)ん。
 汝等は皆菩薩の道を行じて、当(まさ)に仏と作(な)ることを得(う)べければなり。」

と、語り、褒め讃えたのです。

 しかし、この比丘の『私はあなた方を未来の仏として敬う』という言葉を聞いた修行者たちはみな一様に、

「お前にいったいどんな資格があって『あなたは必ず仏になるであろう』などという授記(じゅき・仏の予言のこと)を口にできるのか。
 そんなことが言えるのはすでに悟りを開いた仏にしか言えないはずではないか。
 この身の程知らずめ。」

と怒り、ののしり、それでも礼拝をやめないこの比丘に、時には木や石を投げつけさえしました。
 彼らはこの比丘のことを「常不軽(常に軽んじない)」と仇名したのでした。

(ただし、サンスクリット語原典では「常不軽」は「サダー=パリブータ(常に軽蔑される男・常に軽んじられる者 )」とあります。
 古い訳の『法華経』(竺法護訳『正法華経』)には「常被軽慢(常に軽んじられ慢られる)」と訳されていますから、この「常不軽」という訳には『妙法蓮華経』の訳者鳩摩羅什の特別な思い(=この物語の重点はこの比丘が仲間の修行者たちを常に軽んじなかったという点にこそある)が込められているのかも知れません。)

 この比丘はやがて威音王仏の説き遺した『法華経』の説法を聞いて六根清浄を得、無数の仏に値(まみ)え、讃嘆供養し、無数の衆生に『法華経』の教えを説き、それらの功徳によって仏とな ります。
 その仏こそ現在の私、釈迦牟尼仏世尊であり、常不軽菩薩とははるか昔の私の前世であった、というのです。

 このエピソードでは常不軽菩薩を釈尊の前世としていますが、私はむしろ釈尊その人がまさに「常不軽(常に軽んじない)」の人ではなかったかと思うのです。
 釈尊御自身が「常不軽」の人であられたからこそ仏滅後に成立した『法華経』に釈尊の前世として「常不軽菩薩」が語られたのでしょう。

35歳の成道(じょうどう・悟りを開く)、初転法輪(しょてんぼうりん・最初の説法)から80歳の入滅(にゅうめつ・死)までの45年間の伝道の間、最初の弟子アンニャータ・コーンダンニャ(阿若憍陳如・あにゃきょうちんにょ、了本際)から最後の弟子スバッタ (須跋陀)まで、古代インドの無数の人々が釈尊の前に 立ち現れ、苦難に満ちたその前半生を語っていきました。
(時には釈尊その人を恨み、問責した人すらありました。)

 わが子の死を認められずその遺体を背負い「この子の薬をください」と幽鬼のごとくすがりついたキサーゴータミー。
 ヴェーサリーの高級遊女でありながら虚栄に満ちた暮らしと自らの職業を嫌悪して出家を懇望したアンバパーリー。
  最初の夫を実母に奪われ、2度目の夫が彼女の実娘を第二夫人として迎えるのを目の当たりにしたウッパラヴァンナー(蓮華色)。
 強国マガダの王后でありながらわが子アジャータ サットウ(阿闍世・あじゃせ)に叛かれ幽囚の身となったヴェーデーヒー(韋提希・いだいけ)。
 父王ビンビサーラ(頻婆娑羅)を殺すというクーデターによって王位を獲得しながらその罪の報い(堕地獄)に怯えるアジャータ サットウ。
 ……………

 その語りの一々に耳を傾けている間、語り終えた人々に向かって法を説こうとする直前のしばしの沈黙の間、釈尊はそれらの人々を『未来の仏よ』と拝んでおられたのではないでしょうか。

 何かを語り、伝えるそれ以前に、その人の深い悲しみの前に釈尊ご自身が立ちすくむ。立ち尽くす。
 何かを教えるとか導くとかいうその前に、その人が堪えてきた人生の重さ、厳粛さに対して頭が下がる。
 共感(共苦同感)し、尊敬し、讃嘆し、礼拝する。

「汝、よくぞ堪えた。
 堪えて、よくぞここ(わが前)まで来た。
 尊き人よ。
 『汝は当に仏と作るべし』」

 偏袒右肩(へんだんうけん)※2、長跪合掌(じょうきがっしょう)※3、接足作礼(せっそくさらい)※4、右繞三帀(うにょうさんぞう)※5……。
 わが身に向けられる弟子たちの礼拝を受けながら、釈尊ご自身が実はその人たちを内心深く拝んでおられたのではないでしょうか。

 人間を他の動物に択んで「知性・叡知あるもの」と定義付けた「ホモ・サピエンス(Homo sapiens:ラテン語、「知性人」「叡智人」の意)という語がありますが、ユダヤ人強制収用所を経験した精神分析医ヴィクトール・フランクル (1905−1997)は、それに対して「人間」を「ホモ・パティエンス(Homo patiens:「苦悩に耐える人」「忍苦の人」「苦悩人」)」と定義しました。

 人間を人間(「ホモ・パティエンス」)として拝んで下さる釈尊。
 人間は1人の例外もなく、「常不軽の人」釈尊から拝まれている存在であると言えます。

 そして、私たちの敬愛する法然上人、親鸞聖人、蓮如上人といった方々もまた同様に「常不軽の人」ではなかったでしょうか。

 法然上人の「御影」(ごえい・肖像画)はどれも頭を左に少し傾けているように描かれています。(下部画像参照)
 一説によれば、これは上人が目の前で話す人の言葉にいつも一心に耳を傾けておられたその姿を写したものだと言われています。

 
源空(法然)上人


法然上人
『往生要集披講の御影』
(京都・知恩院蔵)
 

 

 また蓮如上人の『御文』に拠れば、

「故聖人のおおせには、

「親鸞は弟子一人ももたず」

とこそ、おおせられ候いつれ。

「そのゆえは、如来の教法を、十方衆生にとききかしむるときは、ただ如来の御代官をもうしつるばかりなり。
さらに親鸞めずらしき法をもひろめず、如来の教法をわれも信じ、ひとにもおしえきかしむるばかりなり。
そのほかは、なにをおしえて弟子といわんぞ」

とおおせられつるなり。
 されば、とも同行なるべきものなり。
 これによりて、聖人は御同朋・御同行とこそかしずきておおせられけり。」
                                             (『御文』1−1)

 親鸞聖人は自分の下に集まった門弟たちを「わが弟子」ではなく「御同朋・御同行(同じ念仏の法につらなる朋友)」と呼び、「かしずいて」※6(敬う、大切にする)おられたと言います。

 親鸞聖人をそのような方と理解し仰がれた蓮如上人もまた、そのような方であられたのでしょう。

「我は門徒にもたれたり」(私は御門徒に支えられてこその私だ。)

 これらの方々が「常不軽の人」となっていかれたその根源には、まぎれもなく人生に苦悩するわれわれを悲しみ痛み、拝み、「南無阿弥陀仏」という言葉を選び与えた阿弥陀仏の「常不軽」の心、

「我(阿弥陀仏)に南無せよ。
(私はあなたを拝んでいる。どうか私のこの心を聞き届けてくれ。)」

という「声」との出遇いがあったのはないでしょうか。

 「阿弥陀仏」とは、まさしくこのような生きとし生けるものを拝む「心」そのものであり、その「心」がどこにあるかといえば、それはまぎれもなくそれに触れた人の「心」(信心)にあるのでしょう。

 もしかしたら、釈尊ご自身がこの「常不軽」の「阿弥陀」の心に出遇われたからこそ、仏陀釈尊、釈迦牟尼仏となっていかれたのかも知れません。

「才市や、あなたに救われて
 あなた、才市を救いなさるか
 御恩うれしや、南無阿弥陀仏」
「私や、あなたに拝まれて
 助かってくれと、拝まれて
 御恩うれしや、南無阿弥陀仏」
           (妙好人・浅原才市)

「如来に信ぜられ、
 如来に敬せられ、
 如来に愛せられる。
 かくて我等は如来を信ずるを得。」
                (曾我量深)

(「西念寺婦人会だより」2006年3月号掲載)

〈参考文献〉
坂本幸男・岩本裕訳注『法華経』(岩波文庫・1967)
細川行信・村上宗博・足立幸子『現代の聖典 蓮如 五帖御文』(法蔵館・1993)
山田邦男「苦悩の意味 ―ヴィクトール・フランクルの人間観―」
『親鸞教学』第86号(大谷大学真宗学会)・2005)

※1像法(ぞうぼう)

釈尊が入滅せられてから時代が下るにしたがって、その説かれた教えが教えの如くに実行されなくなるという歴史観によって、時代を正像末(しょうぞうまつ、正法(しょうぼう)と像法と末法(まっぽう))の三時にわけ、末法が終わると教えさえも聞かれなくなる法滅(ほうめつ)のときがあるとする。
窺基(きき)の『義林章』巻6本には、教説(教)とその実践(行)とその結果(証)がすべてそなわっている時代を正法、教・行のみの時代を像法、教のみの時代を末法とすると説き、……三時の時限については諸説があるが、多く正法5百年、像法1千年、末法1万年説を用いる。

(法蔵館『総合仏教学辞典』「末法」の項より引用)

※2〜5はいずれも「礼(らい)」(礼拝、拝ともいう)=仏・菩薩・尊者・長上・仏塔などに対して敬意を表す行為、の数々。

※2「偏袒右肩(へんだんうけん)」は法衣の右肩をはずして左肩だけを覆うこと。相手に敬意を表する着衣上の礼法で、もとは給仕等の執務に便ならしめるための行為であった。
※3「跪(き)」はひざまずくこと。「長跪(じょうき)」は、相手の前で両膝を地につけ足の指先で地を支えて礼拝すること。
※4接足作礼(せっそくさらい)」は相手に対するは最高の敬意を表す行為であり、両膝と両肘頭を地につけ手を伸ばして相手の足を受け、自分の頭面にこれを触れる礼法。「頭面作礼(ずめんさらい)」、「五体当地 (ごたいとうじ)」、「挙身投地(こしんとうじ)」とも言い、相手が仏の時は「仏足頂礼(ぶっそくちょうらい)」とも言う。
※5「右繞三帀(うにょうさんぞう)」は、仏や塔にまず一礼し、次にその周りを自分の右側を内にして巡る礼法であり、3周するのを「右繞三帀」と言う。仏に対して行うのを「繞仏(にょうぶつ)」、「行道(ぎょうどう)」とも言う。

※6 かしず・く(かしづく)【傅】

《他動詞カ行四段活用》
@子供などを、大切にして守り育てる。大事にして育て上げる。愛育する。
A大切にして世話する。後見をし、大切にする。人などを大事にまもり扱う。また、自動詞的に、主人として大事に使える。

(『日本国語大辞典』(小学館 )

 
 
 
2006年5月発行 掲載分
 
  「芥子の種」
              

苦労したからこそ、
   他人の身の上を慮る人もあろう。
苦労したからこそ、

   他人を蹴落としてでも、自分の安泰だけを願う人もあろう。
                               (釈尊『ウダーナ』)

 「苦労が身に着く」という言葉があります。
 しかし、同じ「身に着く」にしても良い意味で着く場合もあれば悪い意味で着く場合もあるわけで……。

 自分自身のことはさておき、私の周りにも、ご苦労続きの半生だったにもかかわらずそのお顔はいつもにこやかで、口を開けば謙虚で思いやりに満ちた言葉が溢れてくる、といった方がおられます。(しかしよく注意してみると、眼だけは、いつもどこか悲しそうです。)
 そうかと思えば反対に、口を開けば人の悪口とそれからグチばかりといった方もあります。

  誰1人苦労のない人生などおくってはいないはずなのに、なぜこんな違いが生じてくるのでしょうか。
 もちろんその人その人の個性なり人生経験・哲学なりがあって簡単には言えないのでしょうが、それを考える上での手がかりとなる1つの逸話があります。

 今から2500年ほど前、古代インド、コーサラ国の都シュラーヴァスティー(舎衛城)の祇園精舎で布教して おられた釈尊の前に1人の婦人が現われました。
 目はうつろで焦点も定まらず、全身は砂埃に塗れ、着衣は乱れ、髪は梳(くしけず)った様子もなくボサボサで、一見して狂人と分かるその婦人は背に幼子の死体を背負っておりました。

 狂女の名はキサーゴータミー。
 後に釈尊の弟子としてその名を現代にまで伝えることとなる尼僧の出家前の姿でした。

 狂女は釈尊に背中の子供(彼女の息子)の薬をくれるように懇願しました。
 しかし、彼女が「薬を」というその子はどう見てもすでに死んでおり、遺体からは腐臭さえ発し始めているのです。

 この女性が釈尊の前に立ち現われるのには以下のような経緯がありました。

 貧しい家に生まれた彼女はそれゆえキサー(=やせっぼちの)・ゴータミーとあだ名されていました。
 長じて裕福な家に嫁いだ彼女は結婚当初その出自のゆえに肩身の狭い思いを味わいましたが、子供の誕生とともにその母として尊重されるようになりました。
 しかし大きくなって外を駆け回るようになった彼女の息子は突然の事故で死んでしまいます。 

 悲しみの余り精神に異常をきたした彼女は、

「子供はまだ死んではいない。
 私を元の、子供ができる以前のあの惨めな境遇に陥れたい人たちが死んだことにして子供を捨てさせようとしているのだ。
 この子は病気なだけだ。」

と、薬を求めて町の家々を訪ねて回っていたのです。

 いくら「薬を下さい」と言っても死骸を背負った狂女をまともに相手にする家などなく、内心同情する人はあったにせよ、どの家でも 邪険に追い払われた彼女は、ある人の勧めに従って藁にもすがる思いで釈尊を訪ねてきたのでした。 

 
釈迦仏坐像


転法輪釈迦仏坐像
(インド・サルナート考古博物館)
 

 

 彼女の話を聞いた釈尊はこうお答えになりました。 

 「わかりました。
 薬を作ってあげましょう。

 あなたはこれからもう1度町へ行って白芥子の種をもらってきなさい。
 ただし、1人の死者も出したことのない家からもらった芥子の種でなくてはなりません。
 そうでなければ薬はできませんよ。」と。

 初めて薬をくれるという人に出逢ったキサーゴータミーは喜んで町へ戻って行きました。

 そして数日後、彼女は再び釈尊の前に現れました。
 今度は狂女のなりではなく、顔も洗い髪も衣服も整えた落ち着いた姿で、何よりもう子供の遺体を背負ってはいませんでした。

「お教えの通り、白芥子の種を求めて何軒もの家を訪ねましたが、どの家からも断られました。
 白芥子はどの家にもありましたが、死者を出したことのない家は1軒もありませんでした

 中には『差し上げたいのは山々だがそれはできない。この家も誰それの葬儀を出しているのだから。あなたもさぞ……』と私の肩に手を置き、心から悼んで下さった人もありました。

 愛しい者を喪う悲しみは私だけのことではありませんでした。
 人の世は『無常』であり、人は1人の例外もなくこの悲しみを背負って、死に向かって生きていかねばならないものなのですね……。

 子の亡骸は埋葬してまいりました。
 どうか私をお弟子に加えて下さい。」

 「なぜ自分(の子)だけがこんなことに」と、悲しみの中に独り閉ざされていた彼女の心は「無常」を知る、言葉を換えれば人が人であること、人として生きることの悲しみにふれ ることによって開かれ、それまで決して認めようとしなかった、認めることのできなかったわが子の死を受け容れたのです。
 おそらくこの時彼女はわが子の死以来初めて涙を流したのはないでしょうか。

 昨春のJR福知山線の大事故で一人息子さんを亡くされたお父さんが事故直後、

「まだ実感がなくて何も考えられません。
 ですが、この私よりもっと苦しんでおられる方がある。
 それは事故を起こした運転士のご両親ではないでしょうか。」

と発言なさったそうです。

 第三者ならばいざ知らず、事故の当事者(被害者)である人からこんな温かい、いたわりに満ちた言葉が発せられるとは。
 いったいこの方はどんな人生をおくり何と出逢ってこられたのでしょう。

 人は時として独りの悲しみに執われ殻に閉じ籠ります。
 しかしそんな中でも人は人を思いやることができます。

 自分にそれができるとかできないとかいう以前に、そんな生き方があることだけは忘れないでいられたら、と私は思うのです。

(「西念寺婦人会だより」2006年5月号掲載)

〈参考文献〉
中村元訳『尼僧の告白」』(岩波文庫・1982)
瀬戸内寂聴『釈迦』(新潮社・2002)
三明はるみ「当然の別れを共に」(『真宗「不遇死」葬儀法要法話実践講座』
四季社・2004))
常塚 聴「キサーゴータミーはなぜ、出家したのか?」(『 現代と親鸞』第8号
親鸞仏教センター・2005))
二階堂行邦「如来の大悲が凡夫にとどく」(『同朋新聞』2006年2月号)

 
 
 
2006年11月発行 掲載分
 
 

「大悲」の心
      ― 「肝苦(ちむぐ)りさ」(沖縄方言) ―


 如来は倦(う)むことなしに、背(そむ)きづめ、違(たが)いづめの私に向かって照らし出してくださる。

 何が照らし出すのか、というと、「大悲」の心です。

 如来大悲とか大悲の本願などとよく聞きますが、どういう心か。

 金子大榮先生からお聞きしたんですが、

 「悲(ひ)」とは非(あら)ずの心と書いて 「悲」。  
  非ずとは否定、「そうでないんだよ」という、首を横に振られるお心。
  私たちに

「お前たちのしていることは、それで正しいと思っているかしらぬが、まちがっているんだよ。
そうでないんだよ」

 と、目に涙をいっぱい浮かべながら、私たちに呼びかけられるのが、如来の大悲心。
  「大」の字がつくのは、一部分、局所だけの修正でない。
  根本から、全部まちがいだという大否定。

 こんなふうに聞かされて、私はなるほどとうなずかされました。

「何がまちがいなのだ。
これで当たり前でないか。
自分が正しいのだ」

と、どこまでも突っ張りつづける私を、最後まで見放さず、見限らず、辛抱強く呼びかけ、照らしつづけてくださる。
 これが大悲の本願です。

 大悲のはたらきは、私に極重悪人(ごくじゅうあくにん)の自覚を照射(しょうしゃ)します。
 この否定心をはずしたら、いくら言葉ばかりをそれらしげに飾り立てても、真実報土(しんじつほうど)にはつながらず、化土(けど)にとどまります。

 「極重悪人の我」と自覚されれば、歎き痛む心がわが内にこみあげます。

「あいすまぬ、おはずかしい」

と、歎異痛惜(たんにつうしゃく)せずにおられません。
 それが「南無」です。
 ここが信心の必須起点です。

 金子大榮先生はこうもおっしゃいます。

「南無阿弥陀仏は自我崩壊の響きです。」

と。

(亀井 鑛『日暮らし正信偈』より)

  前掲の文章において筆者の亀井鑛(こう)先生は、阿弥陀如来の「大悲」とは「目に涙をいっぱい浮かべながら、私たちに対して『そうでないんだ。間違っているんだよ』と呼びかけ、首を横に振られる」お心、「非ずの心」であるとおっしゃいます。
 その大悲の心に照射されて、「自分は正しい。間違っていない。当たり前だ」とどこまでも突っ張り続けるこの私に、「あいすまぬ、お恥かしい」という歎異痛惜の念とともに、「極重悪人の私」という自覚と、「この私をも最後まで見放さず、見限らず、辛抱強く呼びかけ、照らし続けて下さる」如来の本願に対する「南無」の信心が生まれるのだ、とおっしゃっています。

 仏教において「あわれみ」を意味する「悲」という文字はよく、「いつくしみ」を意味する「慈」とワンセットで、「慈悲」という言葉で用いられます。

 手元の仏教辞典(中村元『仏教語大辞典』)を紐解けば、

「慈は与楽(よらく・衆生に楽を与える)。悲は抜苦(ばっく・衆生の苦を抜く)を意味する」

とありますし、中国の古い字典(『広韻』)によれば、漢字それ自体の意味は「慈」はイコール「愛」、「悲」はイコール「痛」であると解説されています。

 つまり仏教が伝わった中国では、人に楽を与えようとする心とは人を慈しみ愛する「慈」の心であり、人の苦しみを抜こうとする心は人を哀れみ悲しみ痛む「悲」の心である、と理解されたのです。

 この「慈悲」が、仏教発祥の地である古代のインドでどのように理解されていたのかと言えば、慈の原語である「マイトリー」は「最高の友情」を、「悲」の原語である「カルナー」は「嘆き、呻(うめ)き」を意味する言葉だったそうです。
 つまり、自分の人生の苦悩に深い悲嘆、「カルナー」(嘆き、呻き)を覚える者は、その呻吟を通して他人の苦悩にも深く共感し、あたかも自分のことであるかのごとく嘆き悲しみ、そして呻き、苦悩するすべての者に対して親近感と慈しみの念、「マイトリー」(最高の友情)を抱くようになる。
 これが「慈悲」ということの元来の意味だそうです。

 ちなみに沖縄県地方の方言(島言葉・うちなーぐち)に「ちむぐりさ」という言葉があるそうです。

「かわいそうやなんてことば使うな」
「沖縄には、かわいそうなんていうことばはないんじゃ」
「肝苦りさ(ちむぐりさ・胸が痛む)か」(灰谷健次郎『太陽の子』)

 「ちむ」とは「肝(きも)」を意味し、「ぐりさ」とは「苦しさ」を意味するのだそうです。
 あえて標準語(ヤマト言葉)にあてはめれば、「断腸(腸(はらわた)がちぎれる)」といった言葉がそれに当るのでしょうが……

 インターネットでこの言葉を検索したところ、あるウェブサイトでは、

「沖縄では心と頭のほかに肝(ちむ)というもんがあってここがいつまでもじくじくと重苦しく痛む」

という沖縄の人の言葉が紹介されており、また、あるサイトではこれを、

「内蔵がかき回され、引きちぎられるような痛み、胸が締め付けられて苦しくなるような思いと言えばいいだろうか。他者が苦しみ、痛み、死んでいく様を、平然と見過ごすことができない。自分のことのように痛みにおそわれ、自分に責めを感じ、いても立ってもいられない思いに駆られる。しかし自分の力ではどうすることもできないもどかしさ、申し訳なさ。そんな思いをひっくるめて、沖縄の人は 『ちむぐりさ』と言う。」

と解説してありました。

 親鸞聖人御製作の「正信偈」※によれば、阿弥陀如来はその因位(いんに・悟りを開く以前の修行者の位)である法蔵菩薩の時代、師匠である世自在王仏の説法によって二百一十億の仏の世界とそこに暮らす人々の生き様をつぶさに御覧になり、どうしたらそれらすべての人々の苦を抜くことができるかを「五劫(ごこう)」という永遠にも等しい長い長い時間思惟し抜かれたと 言います。
 おそらくそれは、暇をもてあました人がのんびり考えたというような呑気なものではなく、二百一十億の世界に暮らす無数の人々、その一人一人の人生を我がこととして見、感じ、その呻き嘆きを追体験なさりながら、文字身心を削って考え続けた思索であり、それが

「衆生が私の願いを聞き届け、それを理解し(=信じ)、南無阿弥陀仏と称えたならば、それらの者を一人残らず我が浄土に生まれさせる」

という誓い(本願)、ひいては

「南無阿弥陀仏」(阿弥陀仏に南無せよ・阿弥陀仏に南無します)

という一言(六字の名)として結実したのです。

 尾田武雄氏(富山県砺波市在住)の研究報告によれば富山県には、肉付きの良い福々しい仏様の姿ではなく、ガリガリにやせ細り、骨と皮ばかりの骸骨同然の姿の石仏が「法蔵菩薩五劫思惟像」として、現在もなお数多く残されているそうです 。

 (「西念寺婦人会だより」2006年11月号掲載)

〈参考文献〉
亀井 鑛『日暮らし正信偈』(東本願寺出版部)
灰谷健次郎『太陽の子』(理論社・1978)
尾田武雄「真宗と石仏 ―特に法蔵菩薩五劫思惟像の石仏について―」
(『北陸石仏の会紀要』第8号・2005)

※「正信偈」
 法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所
 覩見諸仏浄土因 国土人天之善悪
 建立無上殊勝願 超発希有大弘誓
 五劫思惟之摂受 重誓名声聞十方
(法蔵菩薩の因位の時、世自在王仏の所にましまして、諸仏の浄土の因、 国土人天の善悪を覩見して、無上殊勝の願を建立し、希有の大弘誓を超発せり。
 五劫、これを思惟して摂受す。
 重ねて誓うらくは、名声十方に聞こえんと。)

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