「西念寺婦人会だより」2005年7月〜12月分 |
2005年7月発行 掲載分 | |
メメント・モリ(ラテン語「死を想え」) 以前は全く感じなかったのですが、最近自分が先人の有形無形の「遺産」の中で生きていることを実感する機会が増えてきました。 「遺産」と言うと私たちはすぐにお金や土地・家屋といった「形のあるもの」を連想しますが、決してそればかりではなく、故人が遺してくれた「形にならない」言葉や思い出も、それに勝るとも劣らない大切な遺産ではないでしょうか。 私は自分を可愛がってくれた祖父母のことを心温まる思い出として今も覚えています。 4歳の時の祖父の死はやがて
ことを私に気づかせ、
さらには
といった「問い」を私に与えてくれました。 90歳を越えて亡くなった祖母は私に
とあらためて教えてくれました。 いずれも私が真宗の僧侶として生きる上での、親鸞聖人の教えを尋ね求めていく上での大事な課題となっています。 話は変わりますが、ここ数年6月になると毎年のように凄惨な事件が、それも学校を舞台に起きています。 事件が起こるたびに、TV・新聞等ではさまざまな議論が展開されます。 しかし、それら関係者の必死の営みを嘲笑うかのように、悲しい事件は後を絶ちません。 「命を大切に」という大人たちの叫びがなぜ子供たちの耳には届かないのでしょうか。 『納棺夫日記』の作者である作家の青木新門氏は、その理由について、
と語っておられます。 青木氏によれば、東京都が公立の小学5年生から中学1年生を対象に調査したところ、「誰かのお葬式に行ったことがありますか」という質問に対して「ある」と答えた生徒が65パーセント。 もちろん世代間の別居によって祖父母と離れて暮らしているという事情もあるでしょうが、親たちが積極的に死に目に逢わそうとしていない、むしろ遠ざけようとしている現実が浮かび上がってきます。 青木氏は、大人社会が死を隠蔽してきた結果、子供たちは死を観念でしか、頭の中でしか考えることができなくなってしまっているのではないか、として 「神戸児童連続殺傷事件(」1997年)の犯人であるいわゆる少年Aが取り調べの際に
という質問に対して答えた言葉を挙げられました。
彼もまたおばあちゃんの実際の死に立ち会ってはいなかったそうです。 そう言えば、昨年
と語ったと伝えられました。
という誰かのコメントが添えられていたように記憶しています。 そしてそれと比較対照する形で青木氏は、実際に祖父の死に立ち会った(少年Aと同じ)14歳の少年の作文を紹介されました。
このおじいちゃんは自らの死をもって、文字通り命を懸けて、死とは何か、肉親と死に別れるとはどういうものであるか、本当の人のいのちの尊さとは何かをこの少年に教えて下さったのです。 いつか終わりが来るからこそ、一度喪われてしまえば二度と取り返せないからこそ命は大切であり、かけがえのないものなのではないでしょうか。 青木氏は直接には「命を大切に」というスローガンを連呼しながら、それを伝える場を奪っている大人社会を批判しておられますが、実は大人たち自身が「命の大切さ」―それは現実の死と切り離して考えても決してわからない―を本当にはわかっていない―だから死を隠し遠ざける―という虚偽・欺瞞への批判も込められているのではないでしょうか。 寺川俊昭先生は、今から40年程前、ある証券会社の社長さんが卒業・就職目前の高校生に対して、「就職の心構え」という講話の第一声に発せられた言葉を今も覚えておられるそうです。 その講師はこれから社会に巣立っていく若者たちに向ってこうおっしゃったそうです。
この
という講師の親切な、本当に親切な言葉を、先生はご自身にとっての大切な呼びかけとして、今も時折思い出されるそうです。 (「西念寺婦人会だより」2005年7月号掲載) 〈参考文献〉 〈参考ウェブサイト〉=クリックでジャンプできます= |
2005年9月発行 掲載分 |
いのちのバトンタッチ ― より深い「絆」へ ― 前号で私は、祖父の臨終に立ち会った14歳の少年の作文を紹介しました。
学校で、家庭で、テレビで、新聞でと、当節「命の大切さ」が語られない場所はありません。この少年にしてもまた然り。いろいろな場所で耳にし、彼自身もまた口にする機会があったかも知れません。 にもかかわらず彼はここで「『本当の』人のいのちの尊さ」という言葉を用いています。 「本当の人のいのちの尊さ」。それはもしかしたら大切な人との別離、その悲しみを通してしか学びとれないものなのかも知れません。 それらはこの子のお祖父さんが死をもってこの子に教えて下さったものなのでしょう。 しかし、お祖父さんが「命懸け」でこの子に伝えたものはそれだけではありませんでした。 実はこの作文はこれで終わりではなく、後半があるのです。 彼はお祖父さんが亡くなった後、その「死に顔」を見てこんなことを感じているのです。
おそらくこの少年はお祖父さんのことを大変尊敬し、また大好きだったのでしょう。 大好きな祖父と二度と会えなくなる寂しさ、辛さの中で、彼は「いつまでもお前を見守っている」というお祖父さんからのメッセージを受け取っているのです。
「肉身」の祖父との別れを通して、彼は言わば自分と共にある祖父、自分の中で生き続ける祖父と出逢ったのではないでしょうか。 進学、就職、結婚……。1人の人間として生きていく上で、このお祖父さんの「約束」が彼にとってどれほどの支え、励ましとなっていくでしょうか。 ある人が
と語るのを耳にしたことがあります。 悲しいかな、人は忘れる生き物です。 しかし、だからといってそれが即故人を「忘れた」ことにはならないのではないでしょうか。 もちろんそれは両者の間に深い、確かな心の交わりがあったということが大前提です。 先立っていく人には「このままただ消え去りたくはない」「何かを残したい」「自分のことを忘れないで欲しい」という思いがあり、残された人には「あの人ともう一度会いたい」という思いがあります。 双方の思いが満たされる「場所」、生者と死者とが出会える「場」、それが見出された時、悲しみは悲しみのままとして、両者の間に新しい絆が生まれてくるのではないでしょうか。 一般的に言えば、お墓やお仏壇の前、あるいは思い出の場所などが具体的な意味でのそれに当たるのですが、私たち真宗門徒には、ある一つの「言葉」、「南無阿弥陀仏」という言葉をその出会いの場所としてきたという伝統があります。
これは藤代聡麿先生が晩年肉親に語られた言葉だそうです。
私はこの言葉から、先生のこのような切実な思いを感じざるを得ません。 次に紹介する「私は」という詩。これは乳ガンのため亡くなった北海道の坊守故鈴子章子さんが、転移によって左肺を切除した後、転々移を告知された翌日の早朝に作られたものです。
近い将来間違いなく訪れる死を前に、鈴木さんは四人のお子さん(慎介くん・大介くん・啓介くん・真弥さん)を始めとする有縁の人々に「私はあなたの南無阿弥陀仏になります。私を思い出したら南無阿弥陀仏と呼んで下さい」と遺言するのです。(この三ヵ月後に鈴木さんは亡くなります。) 鈴木さんはまた、同じ日の朝にこんな詩も作っておられます。
このように私たち真宗門徒には、「南無阿弥陀仏」を生者と死者の絆を繋ぐ言葉として伝えてきた歴史があるわけですが、冒頭の少年が「見守っているよ」というお祖父さんのメッセージを感じ取ったことも、実は同じ伝統の中から生じてきた出来事なのです。 この少年の高校1年生の兄が、同じ祖父の死を次のように描いています。
「この後どうなるものか(どこへ行くのか、一人ぼっちで死んでいくのか)」という祖父の孤独と不安に「ご一緒に参りましょう(必ずお浄土でお会いしましょう。南無阿弥陀仏)」と応え励ました祖母。 おじいちゃんが彼に「念仏しろ」と遺言したわけではありません。 にもかかわらず祖父の死の情景に根底から揺り動かされて、彼は念仏を選び取ったのです。 この経験を通して彼と祖父、彼と祖母の間にも念仏による絆がしっかりと結ばれたのです。 人の死をめぐるさまざまな問題が念仏の伝統の中ですでに答えられている。 (「西念寺婦人会だより」2005年9月号掲載) 〈参考文献〉
|
2005年11月発行 掲載分 |
「お念仏の日暮らし」
今夏頂いた暑中見舞いの中にこんな一文がありました。
この「お念仏の日暮らし」という一句に私の眼が吸い寄せられてしまいました。 お念仏の日暮しとそうでない日暮らし、お念仏のある生活とない生活とは具体的にどう違うのでしょうか。 そんなことを考えていた折、こんな記事を眼にしました。 大阪で、日本人と在日韓国人に対してそれぞれ「あなたが自分の人生において大切にしているものを順番に3つ挙げてください」というアンケートを行ったところ、日本人の回答が 、
という順位であったのに対して、在日韓国人の回答は、
という順位だったそうです。
という答えが返ってきた、というのです。 この記事を読んで私は即座に聖徳太子御製作『十七条憲法』の「第2条」、
の文を連想してしまいました。 「枉(おう)」とは「木がまがる」、転じて「邪曲の人」、「くるう」という意味の字(諸橋轍次『大漢和辞典』)ですから、『十七条憲法』の文は言わばそのような「私の曲がった、間違ったわがままな生き方」もしくは「そのような生き方の私」を、特定の神に対する信仰ではなく、仏(教主釈迦)・法(その教法)・僧(教法を信奉し実践する仏弟子の集団)に帰依するという仏教の「信仰」を通してのみまっすぐに直すことが出来るという聖徳太子の仏教観を示すものです。
ただ、「直す」という以上は、自分がどのように「間違っている」のか、どのように「わがまま」であるのかがよくわかっていなければなりません。 私たちの眼は前しか見えないようになっています。
日常生活でもし鏡がなかったら、自分がどんな顔や姿形で人前に出ているか省みることすら知らないとしたら、これはちょっと恐ろしいものがあります。 しかし、仏さまの眼から見れば、私たちは自分が鏡を持っていないことにさえ気づかないで、鏡の存在さえ知らないまま生きているのです。
「今月の言葉」で紹介したのは七高僧のお一人善導大師のお言葉ですが、教えとは何も紙に書いた字ばかりとは限りません。 大阪のとあるご門徒のおばあさんはお仏壇の燭台に立てようとしたろうそくが何度立てても傾いてくるのを直しながら、
とつぶやかれたそうです。 宮城先生は斎場でお父上のご遺骨と対面なさった時、
という厳しい叱責が聞こえた気がした、と語っておられます。 また、キリスト教の信者であった詩人八木重吉(1898〜1927)はこんな詩を遺しています。
何度立てても傾くろうそくや肉親の遺骨が言わば「鏡」となって、自らの有り様、生き方を照らし、「それでよいのか」と問いかけてくる。 「この世の森羅万象、経文でないものはない」という趣旨の言葉が曹洞宗の開祖道元禅師にもある※そうですが、親鸞聖人はそれを、阿弥陀さまが森羅万象にまでなって、
と智慧の光明(ひかり)で私たちを照らし呼びかけて下さっている、と教えていらっしゃるのです。
形なき智慧が光明という形となって、さらにはさまざまな人や事物(応化等の種々の身)に化してまで、と。 「お念仏の日暮らし」とは、日々のお念仏の中で、このような阿弥陀さまの智慧を言わば「鏡」と仰いで生きる生き方をこそ言うのではないでしょうか。 前に私は「鏡」を持たない生き方は文字通り「恥知らず」な生き方だと書きました。
という『涅槃経』の言葉によれば、「鏡」を持った時、「自らを愧(は)じる」ことを知った時、初めて「人が人として生きる」ということが始まるのかも知れません。
お釈迦様の教え、親鸞聖人の教えとは、言わば私たちの「ありのまま」を映し出す鏡です。 (「西念寺婦人会だより」2005年11月号掲載) 〈参考文献〉
|
Copyright(C) 2001.Sainenji All Rights Reserved.