「西念寺婦人会だより」2004年1月〜12月分 |
2004年2月発行 掲載分 | |
難 聴 この耳はながねん 私はここ数年、あるお寺の報恩講(宗祖親鸞聖人御正忌)に法話の講師としてお伺いしています。 ご門徒の娘さんとそのお稽古仲間とで見事な腕前を披露してくださったのですが、申し訳ないことに私はその演奏中ずっと考えごとをしていました。 琴の音はBGMよろしく私の耳を通り抜けていったのですが、実はこれは凄いことだったのではないか、と思い至ったのです。 なぜ私が好きなだけ物思いに耽っていられたかと言えば、その演奏が全く「耳障り」でなかった。 演奏はさりげなく始まり、さりげなく終ったわけですが、仮に他の誰か、琴に触れたこともないような人、例えば私が琴の弾き手になっていたとしたらどうだったでしょうか。 ある楽器を、他人がBGM代わりに聞ける水準で弾きこせるようになるまで、一体どれだけの練習が繰り返されてきたのでしょうか。 「当り前」に始まり、「当り前」に終りながら、それは1つも「当り前」ではなかった。一見何気なく見える事柄も、その影での人知れぬ苦労と汗があって成り立っていたのです。 ただ悲しいことに、人は経験のない事柄の苦しさ大変さを、ある程度想像はできるものの、実感として理解することはできません。 ある「ひきこもり」の青年の文章を読む機会がありました。 ひきこもり歴2年。1年以上も太陽を見ず、外出するのはいつも深夜12時過ぎの散歩だけという彼はこう語っていました。 彼は高校までなまじ成績が良かったものだから、
という(今にしてみれば何の根拠もない)自信と万能感を持っていたそうです。 そして、うだつの上がらない周囲の人を
と見下していたそうです。 その彼が今の年齢になり、「ひきこもり」になり、人に馬鹿にされるようになって初めて分かったことがあると言います。
そして彼はこう詫びています。
これらのエピソードから思うのですが、私たちの目は、耳は自分で思っているほどによく見え、よく聞こえているとは限らないようです。 人生において見えなかったものが見え、聞こえなかったものが聞こえるようになるには、それこそ「時間」や「経験」が必要なのかも知れません。 しかし、見えなかったものが見え、聞こえなかったものが聞こえた時、私たちの人生には必ず新しい展望が開けてきます。 浄土真宗では、西方極楽浄土に阿弥陀如来さまがおられて「南無阿弥陀仏」と称える者を必ず浄土に生まれさせて下さると説きます。 これだけ聞くと
と感じる人も少なくないようですが、『大無量寿経』(だいむりょうじゅきょう)には、阿弥陀如来が因位(いんに・仏になる前身)の法蔵菩薩であった時、念仏を一切衆生の往生の行に選ぶに当って「五劫」の間思惟を凝らし、浄土を建立するに当って「永劫」の間あらゆる境遇に生れ変って―それらを経験して―修行を積まれたと説かれています。(注) 親鸞聖人ご制作の「正信偈」はこの物語を、
と詠っておられます。 私たちの御先祖は、この物語を聞きながら、「われらがための法蔵菩薩の御辛労」を偲んできました。 現代の私たちがこの物語を本当にあった話としてそのまま信ずることは確かになかなか難しいことだと思います。 経典の語るこの「五劫」「永劫」という「時間」の長さは、私たちの迷いの「闇」がいかに深い―よく見えない、聞こえない―か、それを破るのがいかに困難であり、私たち人類がそれを破ろうとする深い願いのもと、どれほど長い求道の歴史を刻んできたか、を私たちに語りかけてくれているようです。 そしてまた、「永劫修行」という法蔵菩薩の豊かな「経験」は、念仏によって智慧の眼を開かれた者は、たとえどんな境遇にあっても、それを生き抜いていく力(意欲)が与えられるのだという「事実」を私に教えてくれているようです。 念仏とは、その「御辛労」(時間と経験)とによって深い闇を破られて始まる新しい「生活」そのものを指すのかも知れません。 (「西念寺婦人会だより」2004年2月号掲載)
〈参考文献〉 |
2004年3月発行 掲載分 |
〈清沢満之先生の生きる姿勢〉 人生は享楽の場ではない、戦いの場だ。 「一切皆苦(いっさいかいく)」という仏教語があります。 「四苦八苦」を例に取ってみましょう。 人は生きている限り、このような苦しさ、悲しさに耐えていかなければならないのです。 ところで私は最近、この「人生は苦である」という仏教の人生観を別の言葉に言い換えることもできるのではないかと考えています。 この場合の「戦い」とは、何も人と競争し、人を蹴落としていくという意味のそれではありません。 一生懸命働いて家族を養っていく。それも立派な戦いでしょう。 何を「敵」とするのかは人によって違いますし、一人の人が人生のその時期その時期において違った対象を「敵」とすることも当然起きてきます。 そして、その戦いを通して、「我」を主張することしか知らない人間が、本当の意味での感謝と謙虚さを学び、深い寛容さや思いやりを身に付け、自らの人生をその人自らの手で真に意味あるものにしていくのではないでしょうか。 先日、私は14歳で亡くなった少年の葬儀に出仕しました。 お父さんはこんな言葉でその挨拶を締めくくられました。
最後に最近私が読んだ本の一節を紹介します。
(「西念寺婦人会だより」2004年3月号掲載) 〈参考文献〉 |
2004年5月発行 掲載分 |
今日を生きる 私が無駄に過ごした今日は、 先月の「法語」で紹介した短歌
は、伝説によれば、聖人が9歳で仏門にお入りになる折、詠まれた歌だそうです。 聖人はご両親との縁が薄く、母は早くに亡くなり、父日野有範(ひの・ありのり)は源平合戦の騒乱の中、政争に巻き込まれて隠棲。 出家のため聖人が伯父に伴われて青蓮院(しょうれんいん)の慈円(じえん)和尚のもとに赴いた時にはもう日が暮れており、まだ幼さの残る聖人をこのまま親族と引き離すのを不憫と思われてか、
この懇願によって結局その日の内に聖人は剃髪、出家なさったそうです。 思うに、ご両親との悲しい別れのご経験を通して聖人は早くから人の命のはかなさ、世の無常さを知り、幼いながらも、無常の世を生きるこの命をいたずらに終えたくない、「空過」させたくない、一刻も早く仏道に入って無常の人生を超える道―「出離生死(しゅっりしょうじ)」の道を求めたい、と考えておられたのではないでしょうか。 しかし、私は聖人がこの歌を詠まれたのには実はもう1つの理由があるように思えます。 「無常」を痛感されたがゆえに聖人はその日一日をそのまま、なすべきことを残したままで終えたくはなかった。後悔を残すような形で終わりたくなかったのではないでしょうか。 3月の「法話」で私は、先天性の病気のために14歳で亡くなった少年のエピソードを紹介しました。 お父さんのお話によれば、病気のためにその子はなかなか学校にも行けなかったけれど、それでも学校行事(遠足や運動会)のある時は、健康な子供ならば「当り前」であるはずのその日を心から楽しみにし、当日は久々に逢った友達と本当にうれしそうに過ごしていたそうです。 自分自身の小・中学生時代を振りかえると、学校行事をそれほど楽しみにしてはいなかったようにも思います(もちろん授業がなくなるのは嬉しかったのですが……)。 お父さんは「健康なお子さんならば当り前の……」と述べておられましたが、本当は誰にとっても「当り前」ではないはずなのです。
はずなのですが……。 運動会や遠足の日が来ることを「当り前」のこと、毎年のこと、「また次がある」として、大儀がって過ごしていた私と、「当り前でない」、「次があるかわからない」、「今しかない、今日しかない」と、心から楽しもうとしていたその子と、一体どちらがその日を真剣に生きたのか。どちらが本当にその日一日を活かし切ったのか。 先日、叔父さんを突然に亡くしたある方が葬儀の後、私に、
と漏らされたことがありました。 近親の急死によって「無常の身」の事実を思い知らされたがゆえに、その方は「今日一日」の大切さに思い至られたのです。 今日一日を充分に生きることなしに一生涯を悔いなく生き切ることなどあり得ない話ではないでしょうか。
(「西念寺婦人会だより」2004年4月号掲載) 〈参考文献〉 |
2004年11月発行 掲載分 |
先日、真宗大谷派大阪教区のウェブサイト『銀杏通信』を拝見していたら、『問いと答え―仏教に関するQ&A』コーナーの「供養、孝養の為の念仏は?」という質疑応答 の中で、解答者がかつて正親含英(おおぎ・がんえい)先生から聞いたお話としてこんなエピソードを紹介しておられました。 2人の男の子のうち、長男を事故で亡くし、悲しみに明け暮れて、毎朝その墓前に参っておられたお母さんが、ある日先生を訪ねて来てこう質問された。
それを聞かれた正親先生は、
と答えられた。 その母親が再び先生に会われた時のこと、
と、お礼を言われたそうです。 このお母さんに限らず、さまざまな出来事のために感情や思いの虜となって周りが、何より自分自身の姿が見えなくなってしまうことが私たちにはあります。
そういって悲しんでいる自分こそが、実は一番 周囲―ご近所の方や正親先生、残された家族(この二男坊だって兄を亡くして充分悲しいはずです)、何より死んだ息子さんから心配され思いやられ、悲しまれているという「事実」が見えなくなってしまっていたのです。
「事実」が見えない。 このエピソードを読んで私は、数年前に観たNHKの朝の連続ドラマ『すずらん』のワンシーンを思い出しました。
老境に入った主人公―倍賞千恵子演ずる―「萌」は、成人した一人息子の家族と暮らすという言わば「楽隠居」の身の上でありながら、パートで近所の商店で働き始めます。 彼女の息子は、屋台で幼なじみと酒を酌み交わしながらこうこぼすのです。
それに対してその友人はまずこう諭したのです。
彼はこう続けました。
母親の幸福を願うと言いながら実は、「楽隠居イコール老人の幸福」という自分の思い(価値観)を勝手に押し付けているだけで、最後まで働きたい、何かを産み出していきたいという母親の、言わば「生きる意欲」をつぶそうとしているだけではないのか、と。 友達同士で酒を酌み交わし親の愚痴をこぼす、というのはそこかしこの飲み屋で夜ごと繰り返されているような光景ですが、この場面はしかし、私たちの在り方、自らの思いのみを「是・正しい」とし、自らの目に映るものだけが世界の真の姿であるとして愧(は)じることのない私たちの心、生き方そのものを象徴するものとして強く印象に残っています。 このような私たちの在り方全体が、実は如来さまから「無明長夜(むみょうじょうや・人間の、真実に暗い深い迷いのありさまを夜に喩えた)」として深く痛まれ、悲しまれ、「目を覚ませ。己の姿に気付け」と強く願われているのではないでしょうか。 そして、その如来の深い願いとは、具体的には人の言葉を通して感じ取られるものではないでしょうか。
周囲の人の思いやりに、その奥に働く如来の願いに気付いた時、七転び八起きの人生において再び立ち上がり歩き始める力が私たちに与えられ、そして、次に何をなすべきかが具体的に見えてくるのではないでしょうか。 (「西念寺婦人会だより」2004年11月号掲載) 〈参考ウェブサイト〉=クリックでジャンプできます= |
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