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平成10年(1998)は、本願寺の第8世蓮如上人(1415―1499)の五百回忌にあたり、東西本願寺ではそれぞれ盛大に御遠忌法要が勤まりました。
蓮如上人とは、室町時代中期という戦国乱世の始まりの時代に生まれ、43歳で本願寺住職に就かれて以来、数え年85歳でお亡くなりになるまで、ひとすじに宗祖親鷺聖人の教えの伝道に尽くされた方です。 上人の生い立ちは必ずしも恵まれたものではありませんでした。 応永22年(1415)に、京都東山大谷の本願寺で第7世存如上人の長男として誕生されましたが、当時の本願寺は参拝する人とてない貧窮の極みにあり、おまけに上人の実母は父存如上人の正妻ではありませんでした。
と言い遺して本願寺を出ていかれます。 上人は「庶子」の身ですから、本願寺の後継者であるという確かな保証もありません。 そのような貧窮の中で上人は、最初の妻との間に生まれた子供7人の内、長男(順如)を除いた6人をいずれも寺の小僧や里子に出しておられます。 上人は生涯5人の妻との間に27人の子をもうけられますが、上人の最期を看取った最後の妻蓮能尼を除いて、4人の妻とは次々と死別、子供たちの中にも、長男順如上人・次女見玉尼といった上人より先に亡くなった方が数名おられます。一見大成功を収めたかに見える上人の生涯も、実はこのような「愛別離苦」(あいべつりく・愛しい者との別離の苦しみ)の深い悲しみに彩られたものでありました。 まして最初の妻如了尼は、上人40歳の時、夫の本願寺継職も、その後の華々しい活躍も見ることなく世を去ります。 上人は実にこのような辛酸の中で、「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」と呼びかける宗祖親鷲聖人の教えに出遇われたのでしょう。 自らの人間苦を通して親鸞聖人の教えを確かめられ、広くそれを世に伝えようと生涯ご尽力くださったのです。 |
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【継職・大谷破却】康正3年(1457)、父存如上人が示寂され、上人は本願寺住職(第8代)を継職されます。 上人43歳の時でした。 住職継承後の上人の積極的な教化活動は、多くの参拝者を本願寺にもたらしますが、そのことがやがて比叡山の怒りを買うこととなります。 当時の本願寺は天台宗・比叡山廷暦寺の一末寺でしたから、堂内には護摩壇があり、阿弥陀如来以外の仏像や経典類もあったのですが、上人はそれらを一切打ち壊し、「功徳湯」と称して風呂の焚き付けにしてしまったのですから、比叡山の反応も推して知るべしです。 親鸞聖人の御真影(御木像)を奉じて近江琵琶湖畔に逃れられた上人は、堅田・金森などの地を転々とされ、その間に2度目の妻蓮祐尼(最初の妻の妹)とも死別されます。 【吉崎御坊】文明3年(1471)、57歳の夏、上人は越前吉崎(現福井県金津町)に坊舎を建立し、新しい教化の拠点とされました。 比叡山の圧迫を離れた上人の本格的な活動が開始されます。 ここから全国の門弟に発信されたお手紙が、いわゆる『御文』(御文章)であり、親鸞聖人の教えを平易なカナ混じり文として門徒の方々にお示しになったこれらのお手紙は、長く真宗門徒の大切なお聖教として用いられ、今も容易に拝読することができます。 数年足らずで吉崎は、文字通りの「虎狼の住み家」から遠国からの参拝者が群れをなす御坊を中心とした門前町へと発展します。 しかし、このことがやがて門徒と在地の大名たちとの間に軋櫟を生み、戦雲を招き、結局文明7年(1475)8月、滞在4年にして上人はこの地を去らねばならなくなります。 しかし、上人のご努力は、やがて、京都山科の地に本願寺を再建するという形で結実していきます。 |
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【山科本願寺建立】 文明10年(1478)に造営を開始した山科本願寺は5年の歳月をかけて文明15年(1483)8月、上人69歳の時完成しました。(御影堂は文明12年(1480)に完成。) 山科本願寺の大伽藍と土塀や堀に囲まれた寺内町の壮大さは、まさしく一大宗教都市であり、往時の東山大谷の本顧寺からは想像もできない大規模なものでした。 譲職後も上人は畿内各地を精力的に教化され、明応6年(1497)、83歳の時には隠退の場として大坂石山に坊舎(のちの石山本願寺)を建立されました。 (ちなみに蓮如上人は生涯膨大な数の「名号」を書かれており、それらはいずれも「本尊」として門末に授与されていますが、上人はこの石山の坊舎を「名号を書いて建てたもの」(つまりはその礼金を資金として建てた)とおっしゃっています。) |
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こうして見てみると、蓮如上人の御一生は「功成り、名遂げた」とものであるとはいえ、その内実は積んでは崩し、崩してはまた積むといった挫折と出直し、そして流浪の連続であったことが知られます。 このような上人の御苦労の跡は、私たちが日頃親しんでいる「正信偈」「和讃」「御文(御文書)」のお勤めにも見ることができます。 「帰命無量寿如来 南無不可思議光」で始まる「正信偈」は、親鴛聖人のお作りになったものですが、それらを出版し、今日のような真宗のお勤めの形式に定めて下さったのは蓮如上人です。 子供の頃何げなしに聴いていた「正信偈」の一節が、ある日ふと口を突いて出てきて、自分が真宗の門徒であることに初めて気がついた、という話さえあります。 |
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また、当時の仏教界において、女性は必ずしも救われる者と見なされていませんでした。 迷い多く、障り多く、穣れ多き身として救済の埒外に置かれていました。 そのような時代にあって上人は、このような女人こそ救済するものが弥陀の本願であると、いわゆる「女人往生」を力説されます。 何よりも上人ご自身が、人が人であることの苦しみ、自分が自分でしかないことの無力さに泣いた方であり、その「煩悩具足の凡夫」の歎きを通して、人間を深く悲しむ阿弥陀仏の大悲に出遇われ、名もない老若男女を、共に本願に救われていく「同朋」(どうぼう・友達)として仰がれたからでしょう。 時代の通念に左右されることなく、人間であること、女性であること、卑しき身分であることの悲しみに素直に寄り添った上人であったからこそ、当時の名もない民衆が彼を慕い、その結果として本願寺に隆盛がもたらされたのです。 【遷 化】明応6年(1497)、石山坊舎を建てられた頃から上人は身体の不調を訴えられ、2年後の明応8年(1499)3月25日、山科本願寺で85歳の生涯を終え、浄土にお還りになられました。 まことに「真宗の再興」に一身を捧げられたこ生涯でありました。
最後に、蓮如上人の「真宗再興」の精神を伝える感銘深いお言葉二つをご紹介させていただきます。 「一 一宗の繁昌と申すは、人のおほくあつまり、威のおほきなることにてはなく候ふ。 (『西念寺だより 専修』第19号〈1994年6月発行〉掲載) |
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