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今年平成25年(2013)は、東本願寺第12世(東本願寺の実質的初代)の教如(きょうにょ)上人(1558―1614)が亡くなられてから399年目、400回忌の年に当ります。 文禄元年(1592)、本願寺宗主(現在は門首)教如上人は、朝鮮出兵のため九州名護屋(佐賀県)に滞陣していた豊臣秀吉の陣中見舞いに赴かれました。 このように教如上人は西念寺と縁の深い方ですので、今回はこの教如上人のご生涯について紹介していきたいと思います。 |
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【ご誕生】 教如上人は永禄元年(1558)、本願寺第11世顕如(けんにょ)上人のご長男としてお生まれになりました。 歴史をひもとけばこの年織田信長は25歳。領国尾張の統一に苦心している時代であり、今川義元を破って天下にその名をとどろかす「桶狭間の戦い」はこの2年後のことです。 いまだ終わりの見えない戦国乱世・群雄割拠の時代でありました。 当時、本願寺は、蓮如上人創建の山科本願寺を戦火で焼かれ(天文元年・1532)、大阪石山の地に移転しておりましたが、宗主顕如上人は「准門跡 じゅんもんぜき」――門跡は皇族・貴族が僧籍に入り住職となる際の呼称――に補され、本願寺自体が大名にも劣らぬ軍事力と経済力を有した当時の日本における巨大な勢力でありました。 教如上人はその大宗団の次期統率者(リーダー)となるべくこの世に生を受けられたのです。
尾張・美濃と勢力を拡大し続けた織田信長は、永禄11年(1568)、足利義昭(後の室町幕府第15代将軍)を擁して上洛し、本願寺に対してまず多額の矢銭(軍資金)の供出を要求しました。 当初は将軍足利義昭、越前の朝倉氏、北近江の浅井氏、甲斐の武田氏、越後の上杉氏らと連携して「信長包囲網」の一角を形成、同年11月の伊勢長島の一向一揆では信長軍を打ち破るなど、有利な戦いを進めていましたが、信長はこれらの難敵を個別に撃破し、本願寺は次第に追い詰められていきました。 天正6年(1578)、織田軍に周囲を包囲された本願寺は、籠城が続く中、 毛利氏からの食料供給の道も断たれ、顕如上人はついに降伏を決意します。天正8年(1580)閏3月、朝廷の仲介によって和睦が成立。 顕如上人は石山本願寺を退去することとなりました。 ところが、これに反対したのが当時23歳の新門教如上人でした。
そう考えた教如上人は和睦を決めた父顕如上人と対立。 結局顕如上人は4月に本願寺を退去、親鸞聖人の御真影(ごしんえい・木像)を奉じて紀伊(和歌山県)雑賀鷺森(さぎのもり)へと逃れます。 一方、抗戦派の頭目となった教如上人はその後も本願寺に留まり、各地に抵抗を促す檄文を発し続けました。(大坂拘様 おおさかかかえざま) しかし、その状態も長くは続かず、同年8月、ついに教如上人も本願寺を退去。 本願寺退去後、教如上人は鷺森の父顕如上人を訪ねますが、信長に鷺森攻めの「口実」を与えることを危惧されたのでしょうか、面会どころか顕如上人から勘当され、天正10年(1582)6月、「本能寺の変」で信長が命を落とすまでの2年間、教如上人は各地を流浪、潜伏の日々を送ることとなります。 |
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【本願寺継職と隠居】 織田信長の死を機に教如上人は勘当を解かれ、その後本願寺は豊臣秀吉の命もあって、大阪天満、そして京都七条堀川(現西本願寺)へと移転を繰り返します。 文禄元年(1592)11月に顕如上人(50歳)が亡くなると教如上人は35歳で本願寺宗主を継職されました。この結果、教如上人の義絶後、逼塞を余儀なくされていた元抗戦派が復権し側近の座を独占、顕如上人の鷺森退去に同道した元和睦派は退けられることとなり、「大坂拘様」以来の対立が本願寺内部で再燃します。 翌文禄2年(1593)閏9月、元和睦派を代表した顕如上人の妻如春尼公(教如上人の実母)は秀吉に、
と訴え出ます。 秀吉はこの訴えを取り上げ、准如上人を本願寺宗主の座に据え、教如上人は「隠居」の身とされます。
こうして教如上人は宗主を隠退なさったのですが、門信徒の支持を失ったわけではなく、その後も本尊の授与や「正信偈」等の刊行といった宗主としての活動を続けられました。 慶長3年(1598年)8月、豊臣秀吉が亡くなり、徳川家康と石田三成の対立が激化する中、慶長5年(1600)、教如上人は三成方の情勢を家康に伝えるため関東に赴きます。 上人の尽力もあって「関ヶ原の戦い」(9月15日)に勝利した家康は、合戦直後に上人と面会。 こうした家康の庇護のもと、新たに「本願寺」(現東本願寺)が別立されたのです。 |
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【教如上人畢生の課題】 慶長19年(1614)、教如上人は57歳で亡くなられますが、その御生涯は、時に権力者の思惑や錯綜した人間関係に翻弄されつつも、いかにして「本願寺」を存続させていくか、という一点に貫かれた「戦い」の御一生であったと思われます。
「本願寺」の存続とは単に伽藍や教団の存続を言うのではありません。 そして、その教如上人を支えたものは、10年に及ぶ「石山合戦」を共に闘い、「拘様」以降の潜伏期間、あるいは「関ヶ原」前夜の逃避行の折に、己の身を顧みず上人を匿った門徒衆ではなかったでしょうか。
少年期の上人は門徒衆のこういった「声なき声」をひしひしと感じてながら成長なさったのではないでしょうか。 人はその生まれ落ちる「場所」を選ぶことはできません。 「本願寺の後継者」という重い「十字架」を、少年期の上人がどのように感じておられたかはわかりません。 しかし、いつの時にか上人はそれを自らの「役割」、自分にしか果たせない「責務(つとめ)」として背負うことを決心されたのでしょう。 不遜な物言いになるかも知れませんが、教如上人の57年の御生涯を私は、時に迷い、時に間違いながらも、人が自らに課せられたその「使命」に誠実に生き抜いた貴重な一例として仰ぐのです。 (『西念寺だより 専修』第38号〈2013年7月発行〉掲載) |
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