法話ライブラリー   真宗大谷派 西念寺
 
大谷大学真宗学会『親鸞教学』第109号掲載(2018年3月)
 
 
 

愚禿善信
                       文明版『正像末和讃』の
                              撰号をめぐって  

豅   弘 信  


はじめに


親鸞は主著『顕浄土真実教行証文類』(以下、『教行信証』)の「後序」に

同じき二年閏七月下旬第九日、……また夢の告に依って、 綽空の字を改めて、同じき日、御筆をもって名の字を書かしめたまい畢りぬ。

と記し、夢告によって「綽空」から改めた新しい名を元久2年(1205)閏7月29日に師法然の直筆でその真影に書いていただいた、と記している。

この名は覚如・存覚以来、「善信」と見做されてきたが、筆者はこの通説(以下、「善信」改名説)に疑問を懐き、旧稿「「善信」と「親鸞」元久二年の改名について」(『親鸞教学』75・76、2000年)以来、この名は「親鸞」であり、「善信」は吉水期以来用いてきた房号であるとする所謂「親鸞」改名説を提唱してきた。

これに対して、「善信」改名論者がその論拠の一つとして挙げるのが、文明5年(1473)に蓮如が「正信偈」『浄土和讃』『高僧和讃』とともに開版した『正像末和讃』(以下、「文明版」)に記された「愚禿善信集」「愚禿善信作」の二つの撰号である。
「正像末浄土和讃」に記された「愚禿善信集」、「皇太子聖徳奉讃」に記された「愚禿善信作」。
これら二つの撰号を根拠に、「善信」改名論者は、元久2年に親鸞は「善信」と改名し、「親鸞」への改名以後も最晩年に至るまで併用した、と主張するのである。

しかし、これらの「愚禿善信」の撰号は果たして親鸞自身の手になるものなのだろうか。
親鸞没後200年余を経て刊行された「文明版」が親鸞の記述を忠実に伝えているのだろうか。

結論から言えば筆者は、これら「愚禿善信」の撰号は親鸞自身によって記されたものではなく、「文明版」の祖本(写本の系統の最初の本)の編纂時、もしくはその流伝の過程において、別人の手によって混入されたものであると考える。

筆者は今回、『正像末和讃』諸本の成立事情、その歴史的背景等について検討し、自説の論証を試みることとする。

 
   1.「文明版」祖本の成立について


『正像末和讃』には以下の代表的な三本がある。

「五十六億七千万 弥勒菩薩はとしをへん……」から「如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし……」までを「已上三十四首」(実際には35首)として記した後、康元2年(1257、親鸞85歳)2月9日に見た「夢告讃」を同正嘉元年閏3月1日に書き入れ、さらに5首を加えた「草稿本」。
(第1首から第9首までは親鸞真筆であり、第10首以降は別筆、おそらくは表紙の袖書にその名のある覚然の筆と思われる。)
⑵その後、「仏智疑惑讃」「愚禿悲歎述懐讃」を増補する等の再治作業を施し、翌正嘉2年(1258)9月24日に脱稿した真蹟本を、正応3年(1290)9月25日に顕智が書写した『正像末法和讃』。(以下、「顕智本」)
「顕智本」にさらに「皇太子聖徳奉讃」「善光寺如来和讃」「自然法爾章」等が増補され、文明5年3月に蓮如によって開版された文明開版本『正像末和讃』(「文明版」)。

「文明版」は「顕智本」に比して大幅な増補・改訂がなされており、「顕智本」の「愚禿親鸞作」(「悲歎述懐和讃」撰号)、「親鸞八十六歳(奥書)に比して、所謂撰号・署名に類するものが「愚禿善信集」、「愚禿善信作」、「釈親鸞之ヲ書ク」、「親鸞八十八歳御筆」と四箇所存在する。

従来、これらの増補・改訂は、「親鸞八十八歳御筆」の記述等から、文応元年(1260、親鸞88歳)頃、親鸞自身によってなされたものであり、新たに編入された「聖徳奉讃」「善光寺讃」については「十一首の間に連続した関係はなく、互いに独立している感が深い」(「聖徳奉讃」)、「五首ばかりでは部分的で、まとまっているわけではない」(「善光寺讃」)といった問題点はあるものの「至極晩年の補訂であるため、なお修正すべき点が残され」たとして、この「文明版」こそが「諸本中最後の本」、つまり『正像末和讃』の最終形態と見なされてきた。(1)

そしてこの「親鸞編集による『正像末和讃』の最終形態としての「文明版」祖本」(親鸞編集説)との見地に立って、例えば松原祐善師は、「愚禿善信集」「愚禿善信作」の撰号が康元2年2月9日夜、寅の時の夢告が聖徳太子によるものであることを反証している、と述べる。(2)

つまり、康元2年2月の聖徳太子の夢告から始まる『正像末和讃』の最終型である「文明版」の撰号に、元久2年に同じ太子の夢告によって親鸞が「綽空」から改めた「善信」の名が使われるのは極めて妥当であり、太子の恩徳が偲ばれたからこそ「聖徳奉讃」にもその名が親鸞自身の手で記されている、というのが「善信」改名論者の主張であった。

しかし、「文明版」祖本が親鸞本人の編集とする見解を導いたものは他ならぬ元久2年の改名が「善信」にであるとする「通念」ではないのだろうか。
つまり、元久2年に「善信」に改名→親鸞自身が「愚禿善信」と記名→「文明版」祖本は親鸞本人の編集といった思考・論理の展開である。
(いったんこの図式が成立すれば、「文明版」祖本は親鸞の編集だから「愚禿善信」も親鸞の記名であり、元久2年の改名は「善信」だという逆の展開も成り立つ。)

ただし、この元久2年の改名が「善信」であるという「大前提」が揺らげば、このような論理展開そのものが成り立たない。
親鸞自身によって「愚禿善信」の名が記されたとする見解も、「文明版」祖本を親鸞自身が編集したとする通説もきわめて疑わしくなる。


   2.鶴見晃説の批判的検討
    (1) 聖徳太子・法然への回顧について
    

ではなぜ、「善信」改名論者は、88歳の親鸞が「愚禿善信」とあえて記したと言うのであろうか。

この点について、鶴見晃氏は、「文応元年十一月十三日  善信八十八歳」の日時・署名をもつ乗信宛「書簡」(『末燈鈔』第6通)の

なによりも、こぞ・ことし、老少男女おほくのひとびとのしにあひて候らんことこそ、あはれにさふらへ。

という記述から、文応元年、正嘉の大飢饉の惨状を目にした親鸞が、「和国の有情をあわれ」(文明版「聖徳奉讃」他)みて、六角堂夢告を通して自身を「善信」へと改名せしめた聖徳太子を憶念して「文明版」祖本に「愚禿善信」と、同じく自身の原点である吉水時代(「善信」が実名であった時代)の法然の教化を回顧して乗信宛「書簡」には「善信」と記せずにはいられなかった、と推定している。(3)

しかし、親鸞の太子・法然讃仰はそれ以前の、宝治2年(1248、親鸞76歳)の『浄土和讃』『高僧和讃』の撰述に始まり、正元元年(1259、87歳)の『選択本願念仏集』延書本の書写まで継続しており、88歳になって唐突に始まったわけではない。

太子に関して言えば、建長7年(1255、83歳)11月に『皇太子聖徳奉讃』(以下、『七十五首太子和讃』)、康元二年(1257、85歳)2月に『大日本国粟散王聖徳太子奉讃』(以下、『百十四首太子和讃』) を撰述。
同正嘉元年5月に『上宮太子御記』を書写。
翌正嘉2年(1258、86歳)6月に改訂を終えた『尊号真像銘文』(広本)に「皇太子聖徳御銘文」を増補しているが、それらの奥書はいずれも「愚禿親鸞」である。

法然に関しても、 宝治2年に初稿本『浄土和讃』所収の「大勢至菩薩和讃」、『高僧和讃』所収の「源空讃」を撰述し、『高僧和讃』奥書には「釈親鸞」と記している。
康元元年(1256、84歳)10月から翌年1月まで法然の伝記・法語等を蒐集した『西方指南抄』 6巻を書写・校合し、これら6巻の奥書にいずれも「愚禿親鸞」と記し、正元元年(1259、87歳)9月には『選択集』延書本4巻を書写し、上巻本・下巻末の奥書に「愚禿親鸞」と記している。

そしてこの間真仏に、建長7年5月に「法然上人消息」(外題は親鸞真蹟)、康元2年正月から3月まで『西方指南抄』、翌正嘉2年に法然の『三部経大意』を書写させている。

また親鸞は、「他力には義なきをもって義とす」との法然の法語を「本師聖人のおおせごと」「大師聖人のみこと」として繰り返し語っており、それらは建長7年6月撰述の『尊号真像銘文』(略本)から正嘉2年12月の顕智聞書の「獲得名号自然法爾御書」まで多数に及んでいるが、これらの聖教・法語・書簡の奥書・末尾にはいずれも「親鸞」「愚禿親鸞」と記してある。

つまり、太子・法然関連の文書中、「善信」は極々稀『西方指南抄』中巻末の『七箇條制誡」の署名と真仏『経釈文聞書』の「親鸞夢記」の二箇所にしか登場しないのである。

また、「顕智本」「文明版」はいずれも「夢告讃」を冒頭に掲げており、康元2年2月9日の夢告が『正像末和讃』の成立上、重大な契機となったことが窺われる。

夢告の主については、宮崎圓遵氏が、2月9日は折しも親鸞が『百十四首太子和讃』を制作していた最中であり、太子尊崇の念が著しく高揚していた時期と思われることから、太子による夢告であろう(4)としているのに対して、例えば山田恵文氏は、夢告の感得は、『西方指南抄』の執筆によって師法然の姿に出遇い師の教えを聞思していくことを通して、自身の原体験である「雑行を棄てて本願に帰す」(「後序」)回心を親鸞が再確認した出来事である(5)としている。

このように夢告の主については太子・法然両説あるものの、「草稿本」においてそれは

 康元二歳丁巳二月九日の夜寅時夢告にいはく
弥陀の本願信ずべし 本願信ずるひとはみな
 摂取不捨の利益にて 無上覚おばさとるなり
   この和讃をゆめにおほせをかふりてうれしさにかきつけまいらせたるなり
 正嘉元年丁巳壬三月一日  愚禿親鸞八十五歳書之

と、「愚禿親鸞」の名で記されている。

(ちなみに筆者は「夢告讃」の本文並びに添え書きの「おほせをかぶりて」の語から見て、夢告の主は法然であると考える。

和語聖教において親鸞は太子の徳を「仏法弘興」(『七十五首和讃』)、すなわち「仏法をこの和国につたえひろめおはします」「この和国に仏教のともしびをつたえおはします」(『尊号真像銘文』(広本))、あるいは「多々のごとくすてずして 阿摩のごとくにそひたまふ」「護持養育」(文明版「皇太子聖徳奉讃」)と述べているが、法然に関しては、「如来の誓願には義なきを義とす」との「大師聖人の仰」(以上、「真蹟書簡」)、「たゞ念仏して弥陀にたすけられまひらすべし」との「よきひとのおほせ」(以上、『歎異抄』第2章)とあるように、具体的な「おおせ」(教言)をもってその恩徳を語っている。
「弥陀の本願信ずべし……」とは親鸞にとって正しく法然の教言に他ならない。)

また、「顕智本」にはなく、直前に「親鸞八十八歳御筆」のある文明版「自然法爾章」も、 専修寺蔵顕智筆「獲得名号自然法爾御書」には、

獲の字は因位のときうるを獲という。……
これは仏智の不思議にてあるなり。
                                    愚禿親鸞八十六歳
正嘉二歳戌午十二月日、善法坊僧都御坊、三条とみのこうぢの御坊にて、聖人にあいまいらせてのきゝがき、そのとき顕智これをかくなり。

と末尾に「愚禿親鸞」とあり、顕智が聞書きした文書の末尾に親鸞が自書署名したことが窺われる。

    (2) 「正嘉の大飢饉の影響」について

前述したように鶴見氏は、親鸞が文応元年にのみ「愚禿善信」「善信」と記した背景に正嘉の大飢饉を挙げる。

確かに「こぞ(去年)」正嘉3年(1259)には、正嘉元年の夏の旱魃に続き、翌2年7月の長雨・低温、9月の暴風雨の襲来という天候不順によって全国的な凶作となり、食量不足の結果同年冬から翌正嘉3年春・夏にかけて諸国に大飢饉が発生した。
また、「ことし(今年)」文応元年(1260)には四季を通して疫病が大流行し、いずれも多くの死者を出している。

しかし、『吾妻鏡』等の当時の史書には火災(建長6年1月・鎌倉、康元2年2月・京都、他)、暴風雨(建長6年7月)、大雨・洪水(建長8年2月~8月)、疫病(赤斑瘡)の流行(同年8月~10月)、大地震(正嘉元年5月~11月・鎌倉、他)といった記事が頻出しており、当時においてそれらの厄災はむしろ日常的ですらあったのである。

建長8年(1256)から康元への改元以来、正嘉、正元、文応、弘長とほとんど毎年のように改元が繰り返されているが、王者の交代による「代始改元」である「文応」 、三革(革令(甲子)・革運(戊辰)・革命(辛酉))の年を区切りと見なして行われる「革年改元」である「弘長」(辛酉)を除いて、凶事に際してその影響を断ち切るための「災異改元」であった。

親鸞自身、幼少期に養和の大飢饉(1181)、関東時代には所謂「寛喜の内省」の契機となった寛喜の大飢饉(1230~1)を経験しているし、この時期、地震・大火・天候不順・飢饉・疫病といった天変地異が毎年のようにうち続く、それこそ「多くの人々の死にあいて候う」世相の中で、親鸞個人においても、息男善鸞の言動に端を発した東国門弟の混乱、あるいは寡婦となった末娘覚信尼とその子覚恵の境遇に心を痛め、建長7年12月の火災で住坊を焼け出されるなど、公私にわたり多事多難な生活の中で、太子・法然を憶念しながら「親鸞」の名のもとに聖教を書き、多くの法語・書簡を送っている。

正嘉の大飢饉が始まる正嘉2年の冬以降も 、親鸞は10月に慶信の「上書」を加筆・添削し、12月には善法坊において上洛中の顕智に「獲得名号自然法爾」の法語(「聞書」末尾「愚禿親鸞」)を語り、 翌正元元年9月には『選択集』延書本を書写 (上巻本・下巻末奥書「愚禿親鸞」)。閏10月29日に「たかだの入道」からの書簡への「返信」(末尾「親鸞(花押)」)を認め、続く文応元年10月21日には唯信宛に十二光仏についての自著の送付を約束する「書簡」(末尾記名なし)を送り、11月13日に乗信宛に「書簡」(文中・末尾「善信」)を送り、12月2日には十二光仏について記した『弥陀如来名号徳』を書写(奥書「愚禿親鸞」)している。

正嘉の大飢饉の影響で「善信」と名のった」という主張を裏付けるものは上記の親鸞文書の内、文応元年11月の乗信宛「書簡」(『末灯鈔』第6通)、ただ一例しかないのである。
    (3) 文応元年乗信宛「書簡」について
この乗信宛「書簡」であるが、文中に親鸞は自らを「善信」と名のり、末尾には、
文応元年十一月十三日    善信八十八歳
乗信御房

と署名している。

この「書簡」において確かに親鸞は、
故法然聖人は「浄土宗のひとは愚者になりて往生す」と候しことを、たしかにうけたまはり候しうへに、ものもおぼえぬあさましき人々のまいりたるを御覧じては、往生必定すべしとて、えませたまひしをみまいらせ候き。
ふみざたして、さかさかしきひとのまいりたるをば、往生はいかゞあらんずらんと、たしかにうけたまはりき。
いまにいたるまで、おもひあはせられ候なり。

という吉水時代のエピソードを回想してはいるものの、「善信」の名で語るその内容は、

まづ善信が身には、臨終の善悪をばまふさず、信心決定のひとは、うたがひなければ正定聚に住することにて候なり。
さればこそ愚痴無智のひとも、おはりもめでたく候へ。

とあるように、むしろ親鸞独自の思想である「現生正定聚」の主張になっている。

如来の御はからひにて往生するよし、ひとびとまふされ候ける、すこしもたがはず候なり。
としごろ、をのをのにまふし候しこと、たがはずこそ候へ。

人々が「如来の御はからいによって往生する」と述べていることに間違いはないし、従来自分が繰り返し申し述べてきたことと相違しないと述べた後、親鸞はこう続ける。

かまへて学生沙汰せさせたまい候はで、往生をとげさせたまひ候べし。
これらの文に続いて親鸞は、前掲の吉水時代のエピソードを挙げ、さらには
ひとびとにすかされさせたまはで、御信心たぢろかせたまはずして、をのをの御往生候べきなり。
たゞし、ひとにすかされたまひ候はずとも、信心のさだまらぬひとは正定聚に住したまはずして、うかれたまひたるひとなり。

と述べ、最後に、

乗信房にかやうにまふしさふらふやうを、ひとびとにもまふされ候べし。
あなかしこあなかしこ。

と記してこの「書簡」を終わっていく。

これらの記述から、正嘉の大飢饉等によって多くの人々が亡くなっていった世情を背景として、当時東国で、臨終の善し悪しに関連した「学生沙汰」「ふみざた(文沙汰)」が流行していたことが窺われる。

これに対して親鸞は、吉水時代の法然の言動を根拠として、「学生沙汰」に陥ってはならない、と人々の信心の動揺(たじろぎ)を戒め、事態への対応として自分の言葉を広く同朋に伝えるよう乗信に指示したのである。

この「書簡」に先立つ乗信からの書簡には当然東国での「学生沙汰」の内容が記されていたであろうし、そこには「善信(房)の教えは……」といった「善信」の呼称で親鸞を名指しで批難した文言も記されていたのではないだろうか。
「実名敬避俗」が常識であった当時、東国の批判者達も「親鸞」と実名で呼ぶことを避けたであろうし、仮に実際の現場では彼らが実名で罵ったとしても、門弟である乗信が実名「親鸞」を避けて房号「善信」の呼称を用いたはずである。
この批判に対する回答として親鸞は「まず善信が身には」と「善信」の房号を用いた、と筆者は考えるのである。

当時東国で横行した「学生沙汰」の詳細は知り得べくもないが、無住『沙石集』巻1には「浄土門ノ人ノ神明ヲ軽(かろんじ)テ罰(を)蒙(る)事」の一段があり、鎮西の「浄土宗ノ学生ノ俗」であった地頭が所領内の検地の際に発見した神田(神社の用に充てる田で不輸祖田)の中の余田(台帳面積より余分の田)を取り上げ、社僧神官らの
「返還しなければ呪詛する」
との要求にも
「自分は呪詛など恐れない。
浄土門の行人である自分に神明が罰を与えるはずはない」
と応じなかったが、最期には無惨に病死し、その母、息子も相次いで亡くなったという話や、ある念仏者の

    「法華経を読むのは雑行であり、必ず地獄に落ちる」

との教えによって読経を捨てた北国の「千部ノ経ヲ読ミタル持経者」が病魔に侵され、最期は唇・舌を食いちぎって狂死した話などを載せて、専修念仏者の臨終の悪相を伝えている。

無住はこの一段において、
凡(およそ)念仏宗ハ、濁世相応ノ要門、凡夫出離ノ直路也。
実二目出度キ宗ナル程二、余行余善ヲ撰(えら)ミ、自余(じよ)ノ仏菩薩神明マデモ軽(かろし)メ、諸大乗ノ法門ヲモ謗ズル事アリ。
此(の)俗諸行往生ヲ許サヌ流(ながれ)ニテ、事(の)外ニ心エズシテ、余ノ仏菩薩ヲモ軽メケル人ナリ。……
又中比(なかごろ)、都ニ念仏門流布シテ、悪人ノ往生スベキヨシイヒタテヽ、戒ヲモタモチ、経ヲモ読(よむ)人ハ、往生スマジキ様ヲ、曼荼羅ニ図シテ、貴ゲナル僧ノ経ヲ読ミテ居タルニハ、光明サヽズシテ、殺生スルモノニ、摂取ノ光明サシ給ヘルヤウヲ書キテ、世間ニモテ遊ビケル比(ころ)、南都ヨリ公家ヘ奏状ヲ奉ル事アリケリ。
其(の)状ノ中ニ云ク、「彼ノ地獄ノ絵ヲ見ル者ハ、悪ヲ作(つくり)シ事ヲ悔(くひ)、此ノ曼荼羅ヲ拝スル者ハ、善ヲ修セシ事ヲ悲ム」トイヒケリ。

と述べ、「諸行往生を許さぬ流」である法然門下の専修念仏者の造悪無碍の所業を挙げ、「摂取不捨の曼陀羅」を問責する『興福寺奏状』の提出にも言及している。

無住はまた、

凡(およそ)念仏宗ノ流(りう)、マチマチナリトイヘドモ、暫(しばら)ク一義ニヨセテ申サバ、大方ハ経ノ文モ釈ノ中ニモ余行ノ往生シ侍リ。
観経ニハ、「読誦大乗、解第一義、孝養父母、五戒八戒、世間ノ五常マデモ廻向シテ、往生スベシ」ト見ヘタリ。
双巻経ニハ、「四十八願ノ中ニ、第十八コソ、トリ分(わき)念仏ニテ侍レ。
第十九ハ、諸ノ功徳ヲ修シテ廻向セバ、来迎スベシト誓(ちかひ)、第廿ハ徳本ヲ殖(うゑ)係念シテ往生スベシ」ト云(いへ)リ。
サレバ念仏ハ取リ分諸行ノ中ニ撰ビ勝リテ、一願ヲ立(たてて)正也、〔本也〕。
余行ハ惣ノ生因ノ願ヲ立テ傍也、末也。
サレバトテ往生セズトハイカヾ申サン。
善導大師ノ御釈ニモ「万行倶(ともに)廻(ゑ)すれば皆往(ゆ)くことを得」ト釈シテ、万行万善イヅレモ廻向セバ往生スベシト見ヘタリ。
雑行ノ下ノ釈ニ、「廻向して生ずることを得可しと雖(いへど)も、衆名疎雑之行」ト釈シ給ヘリ。疎(ウトキ)ト親(したし)キトアレドモ、往生セズトハ見エズ。

として、「余行ノ往生」を認める経釈の文として、『観経』の三福の文(取意)、『大経』の第十九修諸功徳・来迎引接の願、第二十植諸徳本・係念定生の願、善導『般舟讃』、「散善義」の文を挙げ、これらはいずれも余行が往生できないとは説いておらず、余行も回向すれば往生可能であると説いている、というまさしく「学生沙汰」「文沙汰」の主張をも行っている。

以上のように、乗信宛「書簡」の文面とその背景を忠実にたどれば、吉水時代のエピソードは、正嘉の大飢饉等を背景として生じた批難に対して専修念仏者が採るべき態度「学生沙汰」に耳を貸すことなく、「愚者になりて」「たゞ念仏して弥陀にたすけられまひらすべしと、よきひとのおほせをかふりて、信」(『歎異抄』)じて「往生す」べしの根拠として挙げられていることが知られる。

正嘉の大飢饉の衝撃が88歳の親鸞に「善信」の実名を用いさせたとする論理は、短絡的かつ皮相的過ぎると言わざるを得ない。

ただ、筆者も正嘉の大飢饉等の災害が親鸞に何らの衝撃を与えなかったとは考えていない。
あくまで「善信の名のりに関しては……」であり、二種回向・現生正定聚といった思想の強調に対してはむしろ大きな影響を及ぼしたものと考えている。

いささか本論の趣旨からは外れるが、飢饉や疫病によって多くの人々が非業の死を遂げた状況下で、
「臨終に悪相を現じて死んでいったお前の家族・知人は往生出来ていない。
法然・親鸞の教えなんぞを信じたばかりに」
といった専修念仏批判がどれほど残酷に、遺族・友人を精神的に追い詰めたであろうか。

これに対して親鸞は、
たゞし生死無常のことはり、くはしく如来のときをかせおはしましてさふらふうへは、おどろきおぼしめすべからずさふらふ。

と、釈尊の教説にある通り生死は無常であるから誰しもが必ず臨終正念の相を取れるわけではない。
むしろこのような世情であるからこそ、臨終の相を問題とはせず、本願念仏の信心を平生に決定せよ、と勧め続けたのである。

井上尚実氏はこの「書簡」が語られた文脈を考慮して、
「親鸞の言葉は、大災害によって家族や知人を失い悲嘆にくれる人びとに、自信と希望を与える働きをもつ慈悲の表現であったことが分かる」
と述べている。(6)

また、「書簡」末尾の「善信八十八歳」の署名についても若干言及しておきたい。

この「書簡」は『末灯鈔』最古の写本である滋賀県慈敬寺蔵の康永3年(1344)、乗専書写本(本巻)に収められ、その末尾には、

この御消息の正本は坂東下野国おほうちの庄高田にこれあるなりと云々

との追記があるが、親鸞真蹟は現存していない。

『親鸞聖人門侶交名牒』に拠れば、乗信は常陸国奥郡の在住で即信、性観、得善、性証、誓念、覚念、明教らを門弟としていたことが知られる。

おそらく乗信は親鸞の指示に従って、この「書簡」を即信らの前で朗読したであろうし、対応に苦慮する東国の各道場にこれを回覧し、各道場において書写もなされたであろう。
ただし、親鸞直筆の「書簡」は乗信の手元に残されたのではないだろうか。(7)

多屋頼俊氏によれば、この乗信宛「書簡」は室町中期の写本と推定される愛知県浄光寺蔵『親鸞聖人御消息』(全20通・以下、浄光寺本)の第9通にも収められているが、『末灯鈔』では日付が「文応元年十一月十三日」であるのに対して浄光寺本『御消息』では「十一月十六日/文応元年十一月十六日」、宛名が「乗信ノ御房」、署名が「親鸞/善信八十八歳」と親鸞・善信が併記されていると言う。

十一月十六日     親鸞
   乗信ノ御房
   文応元年十一月十六日 善信八十八歳 (8)

また、専修寺第14世堯秀が親鸞及び専修寺歴代の消息を集めて明暦3年(1657)9月に『御書』4冊、寛文元年(1661)に『報恩講御書』1冊の計5冊(親鸞消息26通を掲載)を刊行しており、福井県法雲寺には親鸞及び専修寺第10世真慧、その養子真智、その子真空らの消息計16通を集めた『御書』(ただし江戸期の写本)が存在した。
いずれもこの乗信宛「書簡」を含んでいるものの、「書簡」の日付は「文応元年十一月十三日」となっているとされる。(9)

これらの点から見て、『末灯鈔』第6通が底本とした「下野の国おほうちの庄高田」(専修寺)の「正本」が親鸞真蹟ではなかった可能性は高く、原本(親鸞真蹟)の記述を必ずしも忠実に伝えていなかった可能性があることが知られるのである。

3.「文明版」の撰号について
(1)『正像末和讃』制作の課題意識

前述したように『正像末和讃』は「顕智本」「文明版」いずれも康元2年2月9日夜の夢告を伝える「夢告讃」から始まっている。

前年建長8年5月29日に息男善鸞を義絶した親鸞は以後、7月25日に『浄土論註』版本への加点を終え、引き続き『西方指南抄』の書写・校合を翌康元2年正月2日まで行っていた。
またそれと並行して10月下旬に上洛した真仏・専信・顕智らのために八字・十字・十字・六字の四幅の名号を制作。
11月29日に『往相還相回向文類』を撰述。
正月11日『唯信抄文意』を書写して顕智に与え、27日まで後に信証の所持となる『唯信鈔』『唯信鈔文意』を書写するなど精力的に著述を続けていた。

親鸞が夢にこの和讃を感得した2月9日は、真仏による『西方指南抄』書写の途上であり、真仏の意見に従って親鸞も真蹟本に推敲を加えるなど両者による共同作業が進められていたその最中に当る。

また、この2月9日は『法然上人行状絵図』巻33によれば、50年前の「承元の法難」において安楽房遵西が逮捕・拷問の末、六条河原で斬首された日であるとも言う。(10)

法然の教説・行実を反芻する日々の中、同じ時季に起きた吉水時代の大きな事件を回顧することが直接の契機となって、夢中にその教言を授かったとも考え得るのではないだろうか。

その後、自らも『一念多念文意』の書写(2月17日)、『百十四首太子和讃』の撰述(2月30日)、『浄土三経往生文類』(広本)の改訂・書写(3月2日)を行い、真仏の『指南抄』書写が3月下旬に終了した後と思われる閏3月1日に「草稿本」にこの和讃を記している。

それは、かつて「承元の法難」で露呈した、「念仏者をば仏法者のやぶりさまたげ」(『御消息集』(広本)第十通)る末法濁世の「闘争堅固」の相が善鸞事件において再び繰り返され、自らの東国伝道の成果が水泡に帰するという苦渋を味わった親鸞が、『論註』への加点、『指南抄』の書写を通して自らの原点を再確認し、再び真宗開顕の営為に邁進し始めたまさにその時、それを証誠護念するがごとき「弥陀の本願信ずべし……」の教言に値遇したのである。

親鸞は「草稿本」にこの和讃をゆめにおおせをかぶりてうれしさにかきつけまいらせたるなり」とその感激を記しており、この「おおせ」に鼓舞されて増補・改訂されたものが、翌正嘉2年9月24日に完成した「顕智本」であると思われる。

『正像末和讃』の眼目は、釈迦の遺教・諸善が悉く龍宮に隠れ、道俗が競い争って念仏者を疑い謗り破滅させようとするこの像末五濁の世に、「在世・正法・像末・法滅、濁悪の群萠、斉しく悲引したまう」(「化身土巻・本」)弥陀の悲願を、法然興隆の「浄土真宗」をあらためて標榜することにあったと思われる。

そしてその「浄土真宗」とは、「夢告讃」に「本願信ずるひとはみな……無上覚をばさとるなり」とあり、「文明版」にも、

念仏往生の願により
 等正覚にいたるひと
 すなはち弥勒におなじくて
 大般涅槃をさとるべし
真実信心うるゆえへ
 すなはち定聚にいりぬれば
 補処の弥勒におなじくて
 無上覚をさとるなり

とあるような、真実信心の人をして正定聚に入らしめ、必ず大般涅槃を覚らしめる本願の仏道に他ならない。

そしてその「本願一実の直道・大般涅槃無上の大道」(「信巻」)の根拠である「如来の往還二種の回向」を、この時期親鸞は『浄土三経往生文類』『往相還相回向文類(如来二種回向文)』等で繰り返し強調している。

如来の二種の回向によりて、真実の信楽をうる人は、かならず正定聚のくらゐに住するがゆへに、他力とまふすなり。
しかれば、『無量寿経優婆提舎願生偈』に曰く、「云何回向。不一切苦悩衆生、心常作願、回向為就大悲心故」。これは『大無量寿経』の宗致としたまへり。これを難思議往生とまふすなり。(『浄土三経往生文類』(広本))

この「如来二種の回向との値遇に成就する無上涅槃道(難思議往生)」を親鸞は、

如来二種の回向を
 ふかく信ずるひとはみな
 等正覚にいたるゆへ
 憶念の心はたへぬなり
無始流転の苦をすてて
 無上涅槃を期すること
 如来二種の回向の
 恩徳まことに謝しがたし

と文明版「正像末法和讃」においても同様に述べているし、聖徳太子の恩徳の讃仰を主題とした「聖徳奉讃」においてもまた述べている。

仏智不思議の誓願の
 聖徳皇のめぐみにて
 正定聚に帰入して
 補処の弥勒のごとくなり
聖徳皇のおあはれみに
 護持養育たへずして
 如来二種の回向に
 すゝめいれしめおわします

つまり、『正像末和讃』の撰述は、『教行信証』撰述以来、親鸞が「愚禿釈親鸞」の名のりのもとで行ってきた一連の「真宗開顕」の営みの一環に他ならない。

筆者が元久2年に法然から授けられた名と考えるこの「親鸞」は当然「天親」「曇鸞」二師から採られたものであり、親鸞は両師の恩徳を次のように讃嘆する。

釈迦の教法おほけれど
 天親菩薩はねんごろに
 煩悩成就のわれらには
 弥陀の弘誓をすゝめしむ
天親論主は一心に
 無碍光に帰命す
 本願力に乗ずれば
 報土にいたるとのべたまふ(文明版『高僧和讃』)

「論主は広大無碍の一心を宣布してあまねく雑染堪忍の群萠を開化す」(「証巻」)、すなわち自らも尽十方無碍光如来に帰命しつつ、「群生を度せんがために、一心を彰」(「正信偈」)し、説き勧めたのが天親であること。

論主の一心ととけるをば
 曇鸞大師のみことには
 煩悩成就のわれらが
 他力の信とのべたまふ
天親菩薩のみことをも
 鸞師ときのべたまわずば
 他力広大威徳の
 心行いかでかさとらまし(同右)

その天親の説く「一心」が「煩悩成就の凡夫」である「われらが」ための「他力の信」であること。

弥陀の回向成就して
 往相還相ふたつなり
 これらの回向によりてこそ
 心行ともにえしむなれ
尽十方の無碍光は
 無明のやみをてらしつゝ
 一念歓喜するひとを
 かならず滅度にいたらしむ(同右)

そして、その他力とは「大悲往還の回向」(「証巻」)として具体的にはたらく「如来の本願力」であり、これら如来二種の回向との値遇によって成就する「心行」一心に無碍光如来に帰命する「無上の信心」(『論註』)と「帰命尽十方無碍光如来」と「彼の如来の名を称」(『浄土論』)する讃嘆行が衆生をして必ず滅度に至らしめることを顕示したのが曇鸞である、と親鸞は讃嘆したのである。

「親鸞」とは、法然の選択本願念仏の「浄土宗」こそが「大乗のなかの至極」としての「浄土真宗」(以上、『末燈鈔』第1通)、すなわち真実の仏道であることを、二師の教説への直参を通して明らかにしようとした「真宗開顕」の仏事の主体としての名なのである。

「顕智本」は「愚禿親鸞作」「親鸞八十六歳」の署名を伝えており、「文明版」祖本がかなりの増補・改訂を経ているとはいえ、撰号をあえて「愚禿善信集」(11)に改める必然性があったとは考え難い。


(2)『一念多念分別事』奥書の「愚禿釈善信」

ちなみに文応元年(1260)ではなく建長7年(1255)4月に親鸞が書写したとされる大谷大学蔵端坊旧蔵本『一念多念分別事』奥書には、
本云
建長七歳乙卯四月廿三日
              愚禿釈善信八十三歳書写之

として「愚禿釈善信」が記されている。

親鸞は寛元4年(1246、74歳)に同じ隆寛の著作『自力他力事』を書写(大谷大学蔵本)しているが、その奥書に「愚禿釈親鸞」と記している。

また、隆寛と同様に親鸞が

「この世にとりては、よきひとびと」
「すでに往生をもしておはしますひとびと」
「法然聖人の御をしへを、よくよく御こゝろえたるひとびと」
            (以上、『末燈鈔』第19通、『御消息集(広本)』第3通)

と仰いだ聖覚の『唯信鈔』に関しては、寛喜2年(1230、58歳)の真蹟書写本(専修寺蔵信証所持本)の奥書に「愚禿釈ノ親鸞」、文暦2年(1235、63歳)の『見聞集』紙背の真蹟平仮名本(専修寺蔵)奥書に「愚禿親鸞」とある。
その他後代の書写本奥書においても同様で、仁治2年(1241、69歳)の大谷大学蔵本、寛元4年(1246、74歳)の専修寺蔵顕智書写本には「愚禿釈親鸞」、建長六年(1254、82歳)の滋賀県真念寺蔵本には「釈親鸞」と記されている。

4月23日に『一念多念分別事』に「愚禿釈善信」と記したとされる建長7年に親鸞は、上半期だけを見ても、2月3日(推定)の「書簡」(『御消息集』(広本)第6通)文末署名には「親鸞」、4月26日書写の『浄土和讃』(顕智本)撰号には「愚禿親鸞作」、6月2日撰述の『尊号真像銘文』(略本)奥書には「愚禿親鸞」、6月書写の『本願相応集』には「愚禿親鸞」と記している。

これらの実例から見て、『一念多念分別事』にだけ特別に「愚禿釈善信」と記する必然性があったとは考え難い。

『定本親鸞聖人全集』6写伝篇(2)の「解説」に拠れば、『一念多念分別事』に親鸞の真蹟書写本は現存せず、古写本も大谷大学現蔵端坊旧蔵本・滋賀県圓照寺蔵本・大阪府光徳寺蔵本等が知られるが、いずれも室町末期以降のものでしかない。

これに対して、正和年間(1312~7)頃に越前の天台宗長泉寺別当孤山隠士が記したとされる『愚闇記(愚暗記)』には、

阿弥陀経ヲ読(ま)不ル事

当世一向念仏シテ在家ノ男女ヲ集メ、愚禿善信ト云タル流人作シ為(タ)ル和讃ヲ謡イ、長メ同音ニ念仏ヲ唱ル事有リ、……

として「愚禿善信」の語があり、親鸞没後50年程経過した当時、この呼称が少なくとも越前においては広く用いられていたことが窺われる。

また、『愚闇記(愚暗記)』と同時代の覚如(1271―1351)においては、「釈覚如」(西本願寺蔵『上宮太子御記』奥書、茨城県常福寺蔵『拾遺古徳伝絵詞』奥書他)という、実名「宗昭」にではなく遁世号である「覚如」に「釈」を冠した例が見られ、永仁3年(1293)12月制作の『善信聖人親鸞伝絵』(専修寺本) の「信行両座」段には、遅参して信不退の座に着いた「沙弥法力直実入道」の姿に「釈法力」と註記されている。
文中にも「法力房」とあるように「法力」は熊谷直実の房号実名は「蓮生(れんせい)」であり、「釈の綽空」「釈の親鸞」と本来は実名につけるべき「釈」が房号・遁世号に冠せられており、覚如当時にはすでに厳密な区別がなくなっていることが窺われる。

これらの点から見て『一念多念分別事』の「愚禿釈善信」は明らかに後代伝来の過程で混入したものと考えられ、後代の写本を底本として室町中期に成立した「文明版」(12)の「愚禿善信」を考える上で見落とせない重要な事例であると筆者は考える。

    結

「はじめに」で触れたように、「文明版」の「愚禿善信」を筆者は別人による後代の挿入と考えているが、例えば佐々木瑞雲氏は、真宗興正寺派興正寺蔵本・大阪府慈願寺蔵本・龍谷大学蔵本(坂東和讃)の所謂「河州本」系『三帖和讃』写本の検討を通して「文明版」祖本の親鸞編集説を再提唱し、「愚禿善信」もまた親鸞の手によるものであると主張している。(13)
いずれ機会を得て、佐々木説を検証した論稿を発表したいと筆者は考えている。  
(1)以上、宮崎圓遵「正像末和讃私記」(『宮崎圓遵著作集6 真宗書誌学の研究』)335頁、344頁参照。ただし、昨今では、
「顕智本」からの増補部分、すなわち「聖徳奉讃」「善光寺讃」「自然法爾章」などは、親鸞の著作であることは認められるが、新たにその位置に挿入しなければならない理由が不明である。特に他の和讃に比して内容的に低調だと評される 「善光寺讃」は、親鸞が書き残した未完の断簡が挿入された。
「文明版」には所謂撰号・署名に類するものが「愚禿善信集」、「愚禿善信作」、「釈親鸞書之」、「親鸞八十八歳御筆」と四箇所あるが、その表記が「親鸞」「善信」と不統一であり、またその記される位置も不自然である。さらに 「自然法爾章」の前に位置する「親鸞八十八歳御筆」には「……御筆」と明らかに別人による書き込みがある。
「顕智本」は「草本云 正嘉二歳九月廿四日 親鸞八十六歳」という撰述年時を示す奥書を有するが、「文明版」にはそれに該当するものがなく、また現存写本も存如期のものを最古とし、 親鸞から年代的隔たりを持つものしかない。

といった理由から、親鸞以外の別人による編集、つまりは「顕智本」系本に親鸞の書き残した断簡などを後に別人が挿入したと見る意見(親鸞非編集説)が増えている。
(2)『昭和55年度安居講本 正像末和讃講讃』(東本願寺出版部、1980年)43~50頁参照。
(3)「親鸞の名のり(続)―「善信」への改名と「名の字」―」(『教化研究』148、2010年)29~31頁、33~5頁参照。
(4)宮崎・前掲書、341~2頁参照。
(5)「親鸞と『西方指南抄』」(『親鸞教学』96、2011年)29~32頁参照。
(6) 「現生正定聚と浄土の慈悲(一)「最後の親鸞」に学ぶ」(『親鸞教学』104、2015年)6~7頁参照。
(7)正嘉2年(推定)10月29日付蓮位添状「御自筆はつよき証拠」の記述等に基づく。
(8)多屋頼俊「浄光寺本『親鸞聖人御消息』と『末灯鈔』」(『大谷学報』47―2、1967年、33頁)
⑼『親鸞聖人全消息序説』(真宗大谷派宗務所、1974年)、66~8頁、109~14頁参照。(ただし福井県法雲寺に当該の『御書』が存在していたのはあくまで『親鸞聖人全消息序説』が刊行された1974年時点の話であり、現在の状況は未確認である。)
多屋氏は

「十三日か 十六日かお 決定すべき 資料が無いが、写本の 場合、「六」お「三」と 見誤つて いる ことわ あるが、その逆の 例わ 知らない。……「十六日」の 方が 正しいのかも しれない。」(74~5頁)

と述べている。
(10)ただし、遵西が2月9日に処刑されたとする記述は、この『行状絵図』(法然没約100年後に成立)以外にはなく、藤原定家『明月記』同日条にも、「近日、只だ一向専修の沙汰、搦め取られ拷問せられると云々」とはあるが、遵西処刑の記述はない。
(11)常盤井和子「正像末和讃の成立に関する試論」(『高田学報』70、1981年)でも指摘されているが、親鸞は「文明版」以外の各和讃の撰号には「愚禿親鸞作」「釈親鸞作」(『浄土和讃』)といずれも「作」の字を用いている。
これに対して「集」は元来『教行信証』『浄土文類聚鈔』等の要文を類聚した漢文著作に用いられる字である。
(12)「文明版」系『三帖和讃』の古写本は永享8年(1436)8月の蓮如書写本(西本願寺蔵)、永享9年9月の存如書写本(金沢市専光寺蔵)、文安6年(1449)1月の蓮如書写本(西本願寺蔵)、享徳2年(1453)11月の蓮如書写本(滋賀県円徳寺蔵)等がある。(宮崎・前掲書、206頁、354~5頁参照。)
(13)「「文明版」系「正像末和讃」の成立過程〈異本〉の存在証明とその意義」(『真宗研究』48、2004年)参照。


『親鸞教学』第109号(大谷大学真宗学会・2018年)掲載の論文を加筆補訂)


※文中、文献引用の際には読者の便をはかるため、漢文を書き下し文に改めた。


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