日本宗教学会『宗教研究』第376号(第87巻第1輯)掲載(2013年6月) | |
「釈善信」考 豅 弘 信
『親鸞聖人血脈文集』は、賢心(1488―1552)による天文期書写本(富山県専琳寺旧蔵本。以下、専琳寺本)の記述に基づき、大谷廟堂の相続を巡って唯善と覚恵・覚如が争った際、唯善に肩入れして従来の地位を危うくした横曽根門徒(性信系統)が、事件解決(延慶2年・1309)後に「法然―親鸞―性信」の「三代伝持」によって自派の正統性を主張すべく編纂したものと見られてきた。@ これに対して古田武彦氏は『親鸞思想――その史料批判』(冨山房、1975年)において、現大谷大学図書館蔵『諸法語集』所収の滋賀県蓮光寺旧蔵本(以下、蓮光寺本)に着目し、上宮寺蔵『親鸞聖人御文』(室町末期書写・第1通を欠く。以下、上宮寺本)、大谷大学蔵の恵空(1644―1722)による写伝本(以下、恵空本)等の写本との比較・検討を通して、
を主張した。 蓮光寺本『血脈文集』の構成は以下の通りである。
古田氏はまず、蓮光寺本第1通に記された「おのおの」「往生せむ」「とわれ」「きわまり」「候」「御安」といった語句が、『末燈鈔』第2通・専琳寺本・恵空本所収の同じ書簡(いずれも南北朝期以降の写本)では「をのをの」「往生せん」「とはれ」「きはまり」「さふらふ」「御案」と変更されているのに比べ、東本願寺蔵「真蹟書簡」に見られる親鸞自身の表記法を忠実に伝えていること、また「まふす」「をも」といった表記も専修寺蔵「古写書簡」(鎌倉期)の用法を伝えていることを指摘した。(前掲書、271〜2頁参照) そして、専琳寺本第5段の「流罪記録」「『教行信証』「後序」の抜粋」に続く「性信申し預る本尊の銘文」の記事の
の文は本来、 であったものが、唯善事件の後、「三代伝持」主張のために改変されたものであるとした。(前掲書、259〜64頁参照) また、蓮光寺本第6段「金剛信心の事」の冒頭に、
とある「愚禿親鸞」は、
という本来、第5段末尾にあった「愚禿親鸞」の署名を、蓮光寺本の書写者が誤って「金剛信心の事」の文中に混入したものであり(前掲書、272〜5頁)、「右以二此真文一性信所二尋申一早預二彼本尊一也 源空聖人奉レ譲二親鸞上人一本尊銘文」は善鸞事件の後に『血脈文集』を編集した性信自身の文、その後には、
という文面が続き、古田氏はこれを、『教行信証』「後序」の選択付属・真影図画の記事に、
とある法然が元久2年(1205)閏7月29日に自らの真影に記した「銘文」と「名の字」、次に法然の命終記録、そしてそれらを建保4年(1216)7月21日に性信に書き与えたと記す「親鸞自筆文書」(以下、「建保4年文書」)の文面が続き、これらは善鸞事件の後に『血脈文集』を編集した性信が、自身が親鸞の面授口訣であることの証文として挿入したものであるとされた。(前掲書、277〜80頁参照) (ちなみに当該箇所は、専琳寺本では、
となっており、『往生礼讃』『本願加減の文」と「名の字」、そして建保4年7月21日の日付が欠落している。 また、恵空本では、
とあり、「釈善信聖人、御真筆を以ってこれを書かしめたまうなり」という一文――原本に「釈善信」とあったものに流伝の過程で「(源空)聖人、御真筆を以って……」という注記が加わり、それが「釈善信聖人……」となって原意を喪失したと筆者は推察する――が加わり、法然命終記事が欠落した形で伝わっている。) 前述したように親鸞は「後序」に、
と、夢告によってそれまでの名「綽空」を改め、元久2年閏7月29日に法然によってその真影に「銘文」とともに新しい「名の字」を書いて貰ったと記している。 親鸞のこの新しい名は、その曾孫覚如(1271―1351)が『拾遺古徳伝』に、 またゆめのつげあるによりて、綽空の字をあらためて、おなじき日これも聖人真筆をもて名の字をかきさずけしめたまう。 これに対して筆者はこれを「親鸞」であると考えて種々論考を発表してきたが、「建保4年文書」が親鸞の真作であれば、「名の字」が「善信」である決定的証拠となり、筆者は自説を撤回せざるを得なくなる。 しかし、種々の考察の結果、筆者はこれを後代の偽作であると判断した。その理由について以下、本論において論述していくこととする。
「建保4年文書」の検討に入る前に、まず指摘しなければならないのは、蓮光寺本は語句の表記においては古形を伝えているかも知れないが、「祖本」(古田氏いわく「性信編集本」)の臨写本ではなく、何回かにわたる転写伝来の過程で、すでに誤写・脱落・改変、さらには重大な乱丁が生じているという点である。 『血脈文集』を収めた蓮光寺旧蔵『諸法語集』には『血脈文集』の他に「掟」「改悔文」「御文章」「本願寺中興蓮如上人縁起上」「兼俊公記蓮如上人若年砌事順如上人願成就院事並応仁乱加賀一乱並安芸法眼事 条々」が含まれており(前掲書、331頁参照)、「兼俊」という実悟(蓮如十男)の実名も見られることから、明らかに蓮如(1415―1499)没後以降の書写本であることが知られる。 古田氏によれば、蓮光寺本では、先に挙げたように、本来「建保4年文書」の末尾にあった「愚禿親鸞」が「金剛信心の事」の内部に移動した他、蓮光寺本第5段「流罪記録」の法然の記事の下にある「御名」
とは、本来第4通の末尾にあった「南無阿弥陀仏」 ……いのち候はば又々もうすべく候 が「御名」と略記された上、次の「流罪記録」の段に混入したものだと言う。(前掲書、275〜7頁参照) また、第1通では「この人を上上人とも、好人とも、妙好人とも、」の「好人とも、」、「第十九・第廿の願の御あわれみにてこそ、不可思議のたのしみにあうことにて候え。」の「不可思議のたのしみにあうことにて」が脱落していると言う。(前掲書、272頁、321頁・註(37)参照)
また蓮光寺本では、第3通(慶西宛)の中途で、上宮寺本・専琳寺本・『親鸞聖人御消息集』(広本)第10通には存在する「きこえたり。詮ずるところ……しらぬことにて候えば、とかく」の336文字が欠落し、第4通(性信宛)の中途にそれが含まれている。 一 諸仏称名の願と申し、諸仏咨嗟の願と 申し候なるは、十方衆生をすすめんためときこえたり。ここで問題となるのは第十七諸仏称名の願
に言及した部分(黄色文字)
であるが、専琳寺本型では 諸仏称名の願ともうし、諸仏咨嗟の願ともうしそうろうなるは、十方衆生をすすめんためときこえたり。
であった文脈が、古田氏の言う蓮光寺本型では
という意になる。 しかし、親鸞に先立って法然が『三部経大意』に、 その名を往生の因としたまえることを、一切衆生にあまねくきかしめんがために、諸仏称揚の願をたてたまえり。第十七の願これなり。として、『阿弥陀経』に説かれる諸仏の証誠は第十七願を根拠とするという了解を示しているし、親鸞も『唯信鈔文意』において同様の了解を示している。 おおよそ十方世界にあまねくひろまることは、法蔵菩薩の四十八大願の中に、第十七の願に、十方無量の諸仏にわがなをほめられん、となえられんとちかいたまえる、一乗大智海の誓願、成就したまえるによりてなり。また、『浄土和讃』「弥陀経意讃」において、 と説いているが、この「悲願」とは「その名を往生の因としたまえることを一切衆生に普く聞かしめ」、その証誠をもって「十方衆生の疑心をとどめ」、信心を守護せんと諸仏の称名を誓った「大悲の願」(「行巻」、『定親全』1、17頁)、すなわち第十七願と取るべきではないだろうか。 蓮光寺本型に対して専琳寺本型第3通の当該箇所には、 とあり、第十七願が「方便の御誓願」と位置付けられている。 古田氏は、親鸞の思想体系において「方便の御誓願」とは、「化身土巻」に、 と記された第十九修諸功徳の願を指す語であって、「真実の行願」(「行巻」、『定親全』1、84頁)である第十七願に用いられるべき用語ではない。 したがって「錯乱」は専琳寺本型にこそある、としている。(前掲書、293〜4頁参照) 第十八願成就の真実信心へ「誘引」(「化身土巻」、『定親全』1、269頁)する意味で親鸞は、修諸功徳を勧める第十九願を「方便の願」と位置付けているが、「方便」の語には当然それ以外の意味もある。 例えば聖覚は『唯信鈔』に、 まず第十七に諸仏にわが名字を称揚せられんという願をおこしたまえり。と説いて、名誉を願う必要のない阿弥陀仏があえて諸仏に「名号をほめられん」と願ったのは「あまねく衆生をみちびかんとおぼしめすゆえ」の方便(てだて)であるとしているし、親鸞は、 釈迦弥陀は慈悲の父母として、衆生の信心発起の背景に二尊の善巧方便があると説いている。 その種々の方便の中には第十七願建立の弥陀の大悲の「方便」もあると考えるべきではないだろうか。 また、専琳寺本型第3通は、この後 念仏往生の願は、如来の往相回向の正業正因なりとみえてそうろう。と続く。 この部分で親鸞は、「衆生の疑心をとどめ」る「諸仏の証誠」とはつまりは「まことの信心あるひとは、……『如来とひとし』」 (真実信心の人は……如来と等しい)と諸仏がほめ称えることである、と述べていると思われる。 専琳寺本型第3通の冒頭からここまでを見てみると、諸仏称名の願ともうし、諸仏咨嗟の願ともうしそうろうなるは、十方衆生をすすめんためときこえたり。とあって、「きこえたり」「きこえてそうろう」の語が連続している。 この点から見ても、「十方衆生をすすめんためときこえたり」から「まことの信心あるひとは、……諸仏のほめさせたまいたりとこそ、きこえてそうらえ」までが第十七願に対する解説部分、すなわち親鸞の了解(「……と私(親鸞)はお聞かせいただいている」)を述べた箇所であると判断できる。 また、専琳寺本型第3通ではこの後に位置する また、弥陀の本願を信じそうらいぬるうえには、義なきを義とすとこそ、大師聖人のおおせにてそうらえ。 について、古田氏は専琳寺本型の場合、「かように義の候らん」の「かように」、「この人々の仰せ」の「この」の指示対象・被指示語が書面上に現れていないとしている。(前掲書、295〜7頁参照) しかし、末尾の「慶西御坊御返事」から知られるように、この第3通は慶西の書状への返報であり、慶西からの書状にあった「この人々」が「かように義のそうろうらん」――念仏に関して何らかの「義」(解釈)を立てる――ことを受けて、「他力には義なきを義とす」との法然の法語の解説が展開していると思われる。「この人々」の「義」の内容が慶西の書状からだけではよく理解できないのでこれ以上は言えない、というのが「この人々の仰せの様は、これにはつやつやと知らぬことにて候えば、とかくに申すべきにあらず候」という記述であると筆者は考える。 次に蓮光寺本型の第4通 であるが、「方便の御誓願」に関する箇所は、 信心はかわらじとおもい候えども、ようようきこえたり。となり、この文を古田氏は
という意であるとしている。 これに対して専琳寺本型第4通では問題の箇所は、 なおなお、よくよくすすめまいらせて、信心かわらぬ様に人々にもうさせたまうべし。 となり、建長8年((1256・推定)正月9日付の真浄宛「書簡」にも、 慈信坊がようようにもうしそうろうなるによりて、ひとびとも御こころどものようようにならせたまいそうろうよし、うけたまわりそうろう。と見られるように、「年ごろ、信ありとおおせられおうてそうらいけるひとびと」(同上、151頁)が善鸞の扇動によって動転していく様子に落胆しながらも、あくまで正しい信心を勧めるよう性信に懇請する親鸞の姿が察せられる。 また、古田氏は、蓮光寺本型であれば前述の指示語「かように」「この人々」は「信心はかわらじとおもいそうらえども、様々にきこえたり。詮ずるところは……」「武蔵よりとて、しむ しの入道どのともうす人と、正念房ともうす人……」等と述べた後に出現するので「必要にして十分な被指示語を有している」ことになると言う。(前掲書、297頁参照) しかし、親鸞は「義なきを義とす」との法然の法語を、建長7年(1255、83歳)6月撰述の『尊号真像銘文』(略本)から正嘉2年(1258、86歳)12月の顕智聞書「獲得名号自然法爾」の法語まで多数の聖教・書簡で紹介している。 これに対して第4通――専琳寺本型・蓮光寺本型を問わず――が伝える信心の動揺とは、善鸞の「親鸞が夜密かに自分に特別な――念仏以外の――法門を教えた」「第十八願を萎める花に譬えた」(「善鸞義絶状」、『定親全』3書簡篇、40〜4頁参照)等の言動によるものである。
また古田氏は「この人々」とは王番のため上洛した「しむ(し)の入道・正念房」であるとするが、親鸞は彼らと直接面談していながら「この人々の仰せの様」を詳しくは知らないと言っていることになる。
と記しており、訴訟の顛末や性信が精神的に落ち着いたこと等、親鸞が彼らから詳しく聞かされたことが窺われるにもかかわらず、である。 以上のように、専琳寺本型が親鸞の思想体系に沿い歴史的背景から見ても矛盾がないのに対して、蓮光寺本型は矛盾に満ちている。古田氏は蓮光寺本が『血脈文集』の最古形を伝えるとするが、すでに相当の「錯簡」が見られ、蓮光寺本の信頼性を疑問視せざるを得ない。 これらを踏まえた上で、古田氏の言う「建保4年(1216)7月に親鸞が性信に与えた自筆文書」を見ると、筆者はそこでも疑問に満ちた記述を多々目にするのである。 筆者がまず注目するのは、
という師法然の命終に関する記述である。 ここでは法然の名が「黒谷法然上人」と記されているが、親鸞が師の名を記する際、果たしてこのように書くであろうか。 親鸞は「後序」において法然の命終を、 皇帝 諱守成 聖代、建暦辛の未の歳、子月の中旬第七日に、勅免を蒙りて、入洛して已後、空、洛陽の東山の西の麓、鳥部野の北の辺、大谷に居たまいき。と記し、『高僧和讃』では、 本師源空のおわりにはとして、いずれも実名「源空」で記している。 「たとい、法然聖人にすかされまいらせて」(『定親全』4言行編(1)、5頁)等、口頭での発言を筆録した『歎異抄』はともかく、文書において親鸞が師を「法然」の房号で記する例はきわめて少ない。 「法然聖人」は「書簡」の中の3例、 法然聖人の御弟子のなかにも、われはゆゆしき学生なんどと、おもいたるひとびとも、この世にはみなようように法門もいいかえて、身もまどい、ひとをもまどわして、わずらいおうてそうろうなり。 と、『西方指南抄』の数例しかない。 「書簡」の用例は実名を憚った『歎異抄』の「会話調」に準じて考えるべきであろうし、『西方指南抄』における例も「法然聖人御説法事」「法然聖人御夢想記」「法然聖人臨終行儀」等、以前からあった文書・書簡を集成した中にあり、これを親鸞のオリジナルな用法と見なすわけにはいかない。
これらに対して「建保4年文書」は、古田氏によれば、元来法然の真影に記してあった「銘文」を親鸞が写して性信に与えたという付法・相伝の証文である。 そして親鸞は、法然に対する尊称としては「上人」でなく、すべて「聖人」を用いている。 「黒谷」に関しては『尊号真像銘文』(広本)に、 比叡山延暦寺寶幢院黒谷源空聖人の真像……(『定親全』3和文篇、106頁)との用例があるが、ここでも「源空」「聖人」である。 また、法然の没年齢が「春秋八十」と記されているが、親鸞真蹟の専修寺蔵『見聞集』第二冊には、「聖覚法印表白文」「御念仏之間用意聖覚返事」の文に続いて、 安居院法印御入滅年 文暦二年□未三月六日 御年七十一(『親真集』9、153頁)との書き込みがあり、聖覚の没年齢は「御年……」と記されている。 (ただし、文暦2年(1235、親鸞63歳)6月19日書写の『唯信抄』ひらがな本――ひらがな本は『見聞集』の袋綴じを切り開いた紙背に記されている――奥書の上欄には「文暦二年乙未三月五日御入滅也」(『親真集』8、228頁)とあり、実際の聖覚の没年齢は69歳である。) つまり、この「黒谷法然上人御入滅 春秋八十」は、通常の親鸞の語法に従えば「黒谷源空聖人御入滅 御年八十」と書かれねばならないのではないだろうか。 この点に対して、以上のような親鸞の用語法は、あくまで聖教・書簡類の現存する50歳代後半以降のものであって、建保年間ならば「法然」「上人」「春秋八十」といった例外的表記もあり得るとの反論がなされるかもしれない。 また、「建保4年文書」は、法然の命終年時を「建暦二年壬申歳正月廿五日」として、「〈元号〉○年〈干支〉歳○月○日」という形式で、親鸞が性信に文書を下付した日を「建保四子歳七月下元日奉書之」、原型が「建保四丙子歳」(前掲書、324頁・註(43)参照)だったとしても「〈元号〉○〈干支〉歳○月○日」という形式で記しているが、親鸞の通常の年時記載にこのような例があるだろうか。 『親鸞聖人真蹟集成』に拠れば、親鸞が干支付きで年時を記載する際には「康元二歳丁巳二月九日ノ夜寅時……」(草稿本『正像末和讃』、『定親全』2和讃篇、151頁)、「正嘉元年丁巳壬三月一日」(同上、152頁)のような「〈元号〉○年(もしくは「歳」)〈干支〉○月○日」という形式、あるいは、「康元元丙辰十月卅日書之」(『西方指南抄』下巻本奥書、『定親全』5、290頁)、「康元元丙辰十一月八日」(下巻末奥書、同上、367頁)のような「〈元号〉○(「年」も「歳」もなし)〈干支〉○月○日」の形式、「宝治第二戌申歳初月下旬第一日」(草稿本『浄土和讃・高僧和讃』奥書、『定親全』2和讃篇、139頁)、「建暦第二壬申歳初春下旬第五日」(「源空讃」、同上、136頁)のような「〈元号〉第○〈干支〉歳○月○日」の形式であって、「建保4年文書」のような形式はいずれも存在しなかった。また、「下元日」(21日)の表記についても、前掲の「下旬第一日」(『定親全』2和讃篇、139頁)、「寛元元年癸卯十二月廿一日」(「いや女譲状」、『親真集』4、400頁)という事例はあっても、他にこのような例はない。 つまり法然命終記事等から見る限り、「若我成仏 十方衆生」以下の一連の記述が親鸞の自筆文書であるとする古田氏説の信憑性は著しく低下したと言わねばならない。これを、法然の真影にあった銘文・命終年時等を建保4年(1216)7月下旬に性信が親鸞の許可の下に写したもの――「愚禿親鸞」の署名を含まない――と見ることもまた不可能である。 実際、専琳寺本の当該箇所は「建暦第二壬申歳」「黒谷法然聖人」(『定親全』3書簡篇、178〜9頁)と親鸞の記載方式に順じており、恵空本は「建保四丙子歳」(『真聖全』2、723頁)と干を補っている。 しかし古田氏は、蓮光寺本の書写者は不注意の逸脱はともかく私意をもって「原本」を改変しない(前掲書、272頁参照)――不注意による語句の脱落や位置の移動はあっても語句そのものは忠実に書写している、の意であろうか――としており、そう考えた場合、『血脈文集』の最古形をそのまま伝えるのが蓮光寺本だとする古田氏説自体が揺らぐことになる。 ) だとすれば、古田氏が性信による「建保4年文書」の解説だとした、直前の「右以二此真文一性信所二尋申一早預二彼本尊一也 源空聖人奉レ譲二親鸞上人一本尊銘文」の文にも疑問が生じてくる。 この文にはまず「右この真文をもって性信尋ね申す所に、早く彼の本尊を預かるなり」(法然の真影にある「真文」について尋ねた性信が親鸞からその真影を預かった)とある。
18世紀中葉成立の坂東報恩寺蔵『報恩寺開基性信上人伝記』に拠れば、性信は親鸞の吉水期以来の弟子――元久元年(1204)、性信18歳の春、吉水の法然を訪ねその折親鸞に師事――であり、越後への流罪・常陸への移住の際にも同道したという。C にもかかわらずその性信が、なぜ「源空聖人が親鸞上人に譲り奉る本尊の銘文」という表現を取ったのであろうか。 法然は親鸞に真影の「原本」を預けてそれを模写することを許したのであって「譲った」わけではない。また「奉る」という語は、法然が親鸞に対してへり下っている、師である法然が弟子である親鸞より下位に位置することを意味している。 つまりこの「源空聖人が親鸞上人に譲り奉る」の記述は、真影図画の詳しい実情を知らない人物によってなされた可能性も考えられるのではなかろうか。 (古田氏は「譲る」には言及しておらず、「奉る」は「東国のいなかびとたる素朴なる筆者(性信)」の「誤用」(前掲書、266〜7頁)としているが、確たる根拠は何も示しておられない。) 次に「本尊」の語であるが、『尊号真像銘文』の書名、あるいは前掲の「比叡山延暦寺寶幢院黒谷源空聖人の真像」の語からも知られるように、道場の本尊に用いるべく名号・真影を授与しながらも親鸞はそれらを「本尊」とは呼んでいない。 『西方指南抄』には、上巻本「法然聖人御説法事」に4回「本尊」の語が登場するが、いずれも仏の容像を描写した木像もしくは仏画(曼荼羅)を指している。 まず、阿弥陀如来を始めとした十方三世一切の諸仏の身が常住不変の相を表す金色であるという話題の中で、ただし、真言宗の中に五種の法あり。 として真言宗の五種の「本尊」について言及し、次に天竺の鶏頭摩寺の五通の菩薩が娑婆世界の衆生の往生の行のための「本尊」を請い、その求めに応じて現われた化仏五十体を写して「鶏頭摩寺の五通の菩薩の曼陀羅」として世に広めたという逸話の中で、
と記し、『日本往生伝』にその因縁が記される「智光の曼荼羅」を「世間に流布したる本尊」(同上、9頁)と呼んでいる。 『尊号真像銘文』は建長7年(1255)6月成立の「略本」が覚信に、正嘉2年(1258)6月成立の「広本」が顕智にそれぞれ授けられているし、『西方指南抄』上巻本は康元2年(1257)正月2日に完成し、上洛中の真仏によって3月5日に書写され、その後真蹟本は真仏に、真仏書写本は覚信に与えられている。 古田氏はこの「本尊」の語を、「尊号真像」に代えて性信が用いた真宗史上最初の事例(前掲書、323〜4頁・註(42))であるとするが、 その根拠は「建保4年文書」を親鸞の真作とする氏自身の主張――これがきわめて疑わしいものであることはすでに述べた――以外にはない。門弟集団がはたして師の在世中に、その用語例に反して、「本尊」の語を用いたであろうか。 定朝作の三尺の阿弥陀如来立像を「本尊」としていた法然Dであるが、建久2年(1205)正月朔日付の「書簡」では、勢観房源智に授けた「金色の名号」を奪った法力房蓮生(熊谷直実)に「墨のまゝ」(墨書)の「名号」を与えることを約している。 また、日蓮(1222―1282)は親鸞没後の文永8年(1271)に「南無妙法蓮華経」の題目を中心とした所謂「曼荼羅本尊」を初めて制作し、「末代悪世の凡夫は……法華経の題目を以て本尊とすべし」Gと主張している。 これらによれば経文等を抽出した文字本尊は早くに「本尊」と呼ばれたことが知られる。 初期真宗教団において本尊に用いられた所謂光明本尊であるが、愛知県妙源寺蔵の三幅一具の「光明本尊」はその讃文が正嘉2年(1258)に亡くなった真仏の筆であり、親鸞の在世中にすでに光明本尊が制作されていたことが知られる。H
と、法然の真影を「御えい(影)」と呼んでいるJし、親鸞の妻恵信尼は弘長3年(1263)2月10日付の「書簡」において
と、夫親鸞の肖像を「御えい(影)」と呼んでいる。 法然没後100年頃、徳治2年(1307)から十余年をかけて舜昌が制作したと伝えられる『法然上人行状絵図」巻四十八には、空阿弥陀仏が法然の真影を「本尊」としたと記されている。
親鸞の曾孫覚如は『改邪鈔』(建武4年・1337成立)において「帰命尽十方無碍光如来」の名号こそが親鸞の依用した「真宗の御本尊」であるとし、「絵像木像の本尊」や「三国伝来の祖師、先徳の尊像」を安置することはあっても、「道俗男女の形体」を描いた「絵系図」を安置して崇めてはならないとしている。 いまの真宗においては、もっぱら自力をすてて他力に帰するをもって、宗の極致とするうえは、三業のなかには口業をもって他力のむねをのぶるとき、意業の憶念帰命の一念おこれば、身業礼拝のために、渇仰のあまり瞻仰のために、絵像木像の本尊をあるいは彫刻しあるいは画図す。 真影や絵系図を「本尊」と呼んだとする記述こそないが、これらが当時「本尊」と呼ばれており、そのような状況であったからこそあえて「真宗の本尊は名号」と強調しなければならなかったとも考えられる。 その長子存覚(1290―1373)が建武元年(1334)から応安4年(1371)にかけて記した『存覚袖日記』になると、絵像・名号・光明本のみならず祖師・先徳の真影・連座像もまた「本尊」と記されており、当時はそれらも「本尊」と呼ばれていたことが知られる。 前者は佐々木(地名)の常楽寺妙円が錦織寺から預け置かれて「本尊」とした画工増賀法橋作の「祖師連座像」を貞治2年(1363)3月15日に、後者は遠野(地名)の性空房が「本尊」とした「性観房の影像」――上下に同じ大きさの二幅の色紙が貼られているが銘文は上部のみに『大経』の3文が15行にわたって書かれている――を文和3年(1354)に、存覚がそれぞれ記録したものである。 性信が祖師の真影に言及した文献が他にない以上、法然の真影を「本尊」と記したのが性信でないとは断定できない。
『血脈文集』の成立について古田氏は、善鸞事件によってリーダーとしての資質を問われた性信が親鸞面授としての自らの、さらには法然直弟としての親鸞の「正統性」を証明すべく正嘉元年(1257)以降に編集したとしている 。(前掲書、298〜304頁参照) しかし、筆者はそれを首肯しない。 一通めは、建長8年(1256・推定)6月1日の性信からの「書簡」に対する7月9日付の親鸞の「返書」であり、親鸞はこの「返書」において、 このうったえのようは、御身ひとりのことにはあらずそうろう。 として鎌倉での訴訟における性信への支持を明確に述べている。 また、同じく建長8年7、8月頃と推定される「書簡」の文面では、源藤四郎から性信の近況を聞いた親鸞が、
として、訴訟後の平静を回復した東国の状況を喜びながら、性信の労を労って「汝の往生は疑いない」とまで讃え、念仏を誹謗する人々のことをも視野に入れつつ一層念仏の自信教人信に励むように勧めている。 いずれも『血脈文集』所収の「書簡」類とほぼ同時期に書かれ、親鸞の深い信頼を伝えているにもかかわらず、性信はあえて『文集』に入れなかった、と古田氏は言われるのである。Jそして最後の一通は、建長8年(1256)5月29日付の善鸞宛「義絶状」である。 この善鸞宛「義絶状」には、性信に善鸞を義絶した旨を伝えた「書簡」(『血脈文集』第2通)と同日に書かれ、6月27日に到着した旨が注記されている。 この「善鸞義絶状」は嘉元3年(1305)7月27日付の顕智による写ししか現存せず、善鸞に敵対した側にのみ残されていることから、後世の、つまり顕智による偽作であるとの疑いが出されている。 しかし、当時の義絶状は親から子にのみ渡される私的な文書ではなく、周囲に回覧し証判まで請い、親元で保管され将来に備える公式文書の性格をもつものであったという。Kまた、平雅行氏に拠れば、中世文書には「文書の宛先と受給者との乖離」という原則があり、「義絶状」に「慈信御房」の宛先があってもそれ(原本)が直接善鸞の元に届けられたわけではない。 当時善鸞と性信らは係争中であり、善鸞に「義絶状」を直接渡せば証拠隠滅の危惧すらあった。 (『文集』編纂時にこれらが編集者――性信ではない――の手元になかった、と考える方がむしろ妥当ではないだろうか。) 古田氏は『血脈文集』は唯善事件の後に性信系の横曽根門徒によって編纂されたとする通説を否定して、親鸞在世中に性信自身によって編集されたとした。 筆者は「建保4年文書」の一段を目にした時、「真文」「本尊の銘文」と言いながら、実際の「真影の銘」である名号と善導『往生礼讃』の本願加減の文の外に、銘文ではない「釈善信」の「名の字」と法然の命終記録が書かれていることに違和感を覚えざるを得なかった。 しかし、この「釈善信」が、同じ第五段の「流罪記録」の
と対応していると考えれば得心がいく。 「釈善信」とはつまり、法然から「本尊」を譲られ、法然と共に流罪となり、その命終記録を「本尊」に書き入れた「善信」であり、性信はその「善信」に「本尊の銘文」(真文)について「尋ね申し」「早くに彼の本尊を預か」ったという「法然―親鸞―性信」の「三代伝持」の主張がこの一段には込められているのではないだろうか。 蓮光寺本にはいまだ「法然―親鸞」の関係しか記されておらず、唯善事件以後、「法然―親鸞―性信」の三代にわたる血脈伝持を主張するために横曽根系門徒集団が改作したものが専琳寺本であると古田氏は主張したが、蓮光寺本もまた同じ目的のもとに編集されていると考えるべきではないだろうか。 古田氏は
と主張したが筆者は、
と判断せざるを得ないのである。 おわりに 『血脈文集』が通説の通り、東国での発言力を失いつつある性信系門徒集団によって編集され、「建保4年文書」もその折「三代伝持」主張の意図をもって挿入されたのだとしたら、その記述は制作当時の「時代常識」を反映することになる。 つまり、「建保4年文書」中の
の部分も、親鸞から性信、そして横曽根系門徒へと実際に相伝されてきた「真影の銘」と「名の字」ではなく、その前に引かれた「後序」の文の記述から導き出されてきたものであり、「釈善信」の「名の字」も元久2年(1205)に実際に法然が記したものではなく、『血脈文集』にこの一段を挿入した人物の「名の字」理解を反映したに過ぎないと筆者は考える。 『血脈文集』の成立が唯善事件終決の延慶2年(1309)以降であるとすれば、覚如が『拾遺古徳伝』において、 またゆめのつげあるによりて、綽空の字をあらためて、おなじき日これも聖人真筆をもて名の字をかきさずけしめたまう。 と「善信」改名説を唱えた正安3年(1301)よりも後である。 また、「法然―親鸞―性信」の「三代伝持」の主張が覚如の「法然―親鸞―如信」の「三代伝持・血脈相承」に対抗したものであるとすれば、『血脈文集』の成立は覚如がそれを強調した『口伝鈔』M(元弘元年・1331成立)や『改邪鈔』N(建武4年・1337成立)以降となる。 また、正和年間(1312〜7)頃に越前の天台宗長泉寺別当孤山隠士が記したとされる『愚闇記(愚暗記)』には、 当世一向念仏して在家の男女を集め、愚禿善信と云う流人の作したる和讃を謡い、長め同音に念仏を唱うる事有り……(『真史集』4、719頁) とあり、当時、「愚禿善信」の呼称が世間一般に流布していたことが知られる。東国門弟集団が「善信」説の影響下にあったとすれば『血脈文集』編集の際に「釈善信」の「名の字」が挿入されたとしても不思議ではないし、むしろ「釈善信」の記述によって当該文書の信憑性が増すことにもなったのではないだろうか。 しかし、筆者はこれをむしろ覚如説に影響され、本願寺系への対抗上成立したものであると考える。蓮光寺本の記述は元久2年の親鸞の改名の「事実」を正しく伝えるものではない、と言えよう。
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