法話ライブラリー   真宗大谷派 西念寺
 
日本宗教学会『宗教研究』第376号(第87巻第1輯)掲載(2013年6月)
 
 
 

釈善信」考
                      ―― 蓮光寺旧蔵本『血脈文集』の
                                   「親鸞自筆文書」をめぐって ―― 

豅   弘 信


    はじめに
 

『親鸞聖人血脈文集』は、賢心(1488―1552)による天文期書写本(富山県専琳寺旧蔵本。以下、専琳寺本)の記述に基づき、大谷廟堂の相続を巡って唯善と覚恵・覚如が争った際、唯善に肩入れして従来の地位を危うくした横曽根門徒(性信系統)が、事件解決(延慶2年・1309)後に「法然―親鸞―性信」の「三代伝持」によって自派の正統性を主張すべく編纂したものと見られてきた。@

これに対して古田武彦氏は『親鸞思想――その史料批判』(冨山房、1975年)において、現大谷大学図書館蔵『諸法語集』所収の滋賀県蓮光寺旧蔵本(以下、蓮光寺本)に着目し、上宮寺蔵『親鸞聖人御文』(室町末期書写・第1通を欠く。以下、上宮寺本)、大谷大学蔵の恵空(1644―1722)による写伝本(以下、恵空本)等の写本との比較・検討を通して、

(1)蓮光寺本が『血脈文集』の最も古形を伝える写本であること。
(2) 『血脈文集』は性信(1187―1275)によって親鸞生存中(正嘉年間・1257―9)に編集された最古の親鸞書簡・文書集であること。
(3)専琳寺本は後代の性信系集団内における「改作本」であること。

を主張した。

蓮光寺本『血脈文集』の構成は以下の通りである。

1、笠間の念仏者のうたがいとわれたる事
2、性信あての慈信義絶状
3、慶西あて返事
4、性信あて9月7日書状
5、配流の記録、教行信証後序の抜粋および性信申預る本尊の銘文
6、金剛信心の事‹附奥書›                     (古田、前掲書、256頁)

古田氏はまず、蓮光寺本第1通に記された「の」「往生せ」「とれ」「きまり」「」「御」といった語句が、『末燈鈔』第2通・専琳寺本・恵空本所収の同じ書簡(いずれも南北朝期以降の写本)では「の」「往生せ」「とれ」「きまり」「さふらふ」「御」と変更されているのに比べ、東本願寺蔵「真蹟書簡」に見られる親鸞自身の表記法を忠実に伝えていること、また「まふす」「も」といった表記も専修寺蔵「古写書簡」(鎌倉期)の用法を伝えていることを指摘した。(前掲書、271〜2頁参照)

そして、専琳寺本第5段の「流罪記録」「『教行信証』「後序」の抜粋」に続く「性信申し預る本尊の銘文」の記事の

右この真文をもって、性信尋ね申す所に、早くに彼の本尊を預る所なり。
彼の本尊並びに『選択集』・真影の銘文等、源空聖人より親鸞聖人へ譲り奉る。
親鸞聖人より性信に譲り給う所なり。
彼の本尊銘文。(専琳寺本、『定親全』3書簡篇、1789頁)

の文は本来、

右この真文をもって、性信尋ね申す所、早くに彼の本尊を預るなり。
源空聖人、親鸞聖人へ譲り奉る本尊銘文。(恵空本、『真聖全』2、723頁)

であったものが、唯善事件の後、「三代伝持」主張のために改変されたものであるとした。(前掲書、259〜64頁参照)

また、蓮光寺本第6段「金剛信心の事」の冒頭に、

    建保四歳七月下元日奉書之

金剛信心事 愚禿親鸞信心をえたるひとはかならず正定……
                                       (古田、前掲書、710頁)

とある「愚禿親鸞」は、

    建保四歳七月下元日奉書之
                     愚禿親鸞

金剛 信心事 信心をえたるひとはかならず正定……
                                           (以上、下線筆者)

という本来、第5段末尾にあった「愚禿親鸞」の署名を、蓮光寺本の書写者が誤って「金剛信心の事」の文中に混入したものであり(前掲書、272〜5頁)、「右以此真文性信所尋申早預彼本尊也 源空聖人奉親鸞上人本尊銘文」は善鸞事件の後に『血脈文集』を編集した性信自身の文、その後には、

若我成仏 十方衆生 称我名号
下至十声 若不生者 不取正覚
彼仏今現 在成仏   当知本誓
重願不虚 衆生称念 必得往生
  南無阿弥陀仏       釈善信
    建暦二年壬申歳正月廿五日
    黒谷法然上人御入滅 春秋八十
    建保四歳七月下元日奉書之
                  愚禿親鸞

という文面が続き、古田氏はこれを、『教行信証』「後序」の選択付属・真影図画の記事に、

同じき二年閏七月下旬第九日、真影の銘に、真筆をもって「南無阿弥陀仏」と「若我成仏十方衆生 称我名号下至十声 若不生者不取正覚 彼仏今現在成仏 当知本誓重願不虚 衆生称念必得往生」の真文とを書かしめたまう。
また夢の告に依って、綽空の字を改めて、同じき日、御筆をもって名の字を書かしめたまい畢りぬ。
本師聖人、今年は七旬三の御歳なり。(『定親全』1、381〜2頁)

とある法然が元久2年(1205)閏7月29日に自らの真影に記した「銘文」と「名の字」、次に法然の命終記録、そしてそれらを建保4年(1216)7月21日に性信に書き与えたと記す「親鸞自筆文書」(以下、「建保4年文書」)の文面が続き、これらは善鸞事件の後に『血脈文集』を編集した性信が、自身が親鸞の面授口訣であることの証文として挿入したものであるとされた。(前掲書、277〜80頁参照)

(ちなみに当該箇所は、専琳寺本では、

右この真文をもって、性信尋ね申す所に、早くに彼の本尊を預る所なり。
彼の本尊並びに『選択集』・真影の銘文等、源空聖人より親鸞聖人へ譲り奉る
親鸞聖人より性信に譲り給う所なり。
彼の本尊銘文。
   南無阿弥陀仏
  建暦第二壬申歳正月廿五日
 黒谷法然聖人御入滅春秋八十(『定親全』3書簡篇、1789頁)

となっており、『往生礼讃』『本願加減の文」と「名の字」、そして建保4年7月21日の日付が欠落している。

また、恵空本では、

右この真文をもって、性信尋ね申す所、早くに彼の本尊を預るなり。
源空聖人、親鸞聖人へ譲り奉る本尊銘文。
若我成仏、十方衆生、称我名号下至十声、若不生者不者正覚、彼仏今現在成仏、当知本誓重願不虚、衆生称念必得往生。
南無阿弥陀仏。
釈善信聖人御真筆を以ってこれを書かしめたまうなり。
   建保四丙子歳七月下元日 これを書き奉る。(『真聖全』2、723頁)

とあり、「釈善信聖人、御真筆を以ってこれを書かしめたまうなり」という一文――原本に「釈善信」とあったものに流伝の過程で「(源空)聖人、御真筆を以って……」という注記が加わり、それが「釈善信聖人……」となって原意を喪失したと筆者は推察する――が加わり、法然命終記事が欠落した形で伝わっている。)

前述したように親鸞は「後序」に、

また夢の告に依って、綽空の字を改めて、同じき日、御筆をもって名の字を書かしめたまい畢りぬ。(『定親全』1、382頁)

と、夢告によってそれまでの名「綽空」を改め、元久2年閏7月29日に法然によってその真影に「銘文」とともに新しい「名の字」を書いて貰ったと記している。

親鸞のこの新しい名は、その曾孫覚如(1271―1351)が『拾遺古徳伝』に、

またゆめのつげあるによりて、綽空の字をあらためて、おなじき日これも聖人真筆をもて名の字をかきさずけしめたまう。
それよりこのかた善信と号すと。云々(『真聖全』3、731頁)

と記して以来、「善信」であるとされてきた。

これに対して筆者はこれを「親鸞」であると考えて種々論考を発表してきたが、「建保4年文書」が親鸞の真作であれば、「名の字」が「善信」である決定的証拠となり、筆者は自説を撤回せざるを得なくなる。

しかし、種々の考察の結果、筆者はこれを後代の偽作であると判断した。その理由について以下、本論において論述していくこととする。


1.  蓮光寺本の「乱丁」について


「建保4年文書」の検討に入る前に、まず指摘しなければならないのは、蓮光寺本は語句の表記においては古形を伝えているかも知れないが、「祖本」(古田氏いわく「性信編集本」)の臨写本ではなく、何回かにわたる転写伝来の過程で、すでに誤写・脱落・改変、さらには重大な乱丁が生じているという点である。

『血脈文集』を収めた蓮光寺旧蔵『諸法語集』には『血脈文集』の他に「掟」「改悔文」「御文章」「本願寺中興蓮如上人縁起上」「兼俊公記蓮如上人若年砌事順如上人願成就院事並応仁乱加賀一乱並安芸法眼事 条々」が含まれており(前掲書、331頁参照)、「兼俊」という実悟(蓮如十男)の実名も見られることから、明らかに蓮如(1415―1499)没後以降の書写本であることが知られる。

古田氏によれば、蓮光寺本では、先に挙げたように、本来「建保4年文書」の末尾にあった「愚禿親鸞」が「金剛信心の事」の内部に移動した他、蓮光寺本第5段「流罪記録」の法然の記事の下にある「御名」

……いのち候はば又々もうすべく候

            流罪土佐国、
一 法然聖人             御名
            俗姓、藤井元彦、
                                
           (古田、前掲書、708頁)

とは、本来第4通の末尾にあった「南無阿弥陀仏」

……いのち候はば又々もうすべく候
                    南無阿弥陀仏

            流罪土佐国、
一 法然聖人
            俗姓、藤井元彦、                          
(以上、下線筆者)

が「御名」と略記された上、次の「流罪記録」の段に混入したものだと言う。(前掲書、275〜7頁参照)

また、第1通では「この人を上上人とも、好人とも、妙好人とも、」の「好人とも、」、「第十九・第廿の願の御あわれみにてこそ、不可思議のたのしみにあうことにて候え。」の「不可思議のたのしみにあうことにて」が脱落していると言う。(前掲書、272頁、321頁・註(37)参照)

また蓮光寺本では、第3通(慶西宛)の中途で、上宮寺本・専琳寺本・『親鸞聖人御消息集』(広本)第10通には存在する「きこえたり。詮ずるところ……しらぬことにて候えば、とかく」の336文字が欠落し、第4通(性信宛)の中途にそれが含まれている。
古田氏は336文字が第3通に存在するものをA型(以下、専琳寺本型)、336文字が第3通にはなく第4通に存在するものをB型(蓮光寺本型)と呼び、蓮光寺本型こそが『血脈文集』本来の姿であるとした。
(恵空本も蓮光寺本型ではあるが、第3通当該箇所の右横に「コノ間落紙アルベシ」と欠落を指摘する注記がある。)(前掲書、288〜97頁参照)

古田氏が「本来の姿」とした蓮光寺本型では第3通は以下の文面になる。
一 諸仏称名の願と申し、諸仏咨嗟の願と 申し候なるは、十方衆生をすすめんためときこえたり。
又、十方衆生の疑心をとどめんりょう(料)ときこえ候。
弥陀経』の十方諸仏の証誠のようにて※もうすべきにあらず候。
又、「来」の字は、衆生利益のためには、きたるともうす。
方便なり。
さとりひらきては、かえるともうす。
ときにしたがって、きたるとも、かえるとももうすとみえて候。
なにごともなにごとも、またまたもうし候べく候。
  二月廿五日     親鸞
慶西御坊 御返事
    (蓮光寺本、古田、前掲書、207頁。専琳寺本型では※印に336文字が入る)
ここで問題となるのは第十七諸仏称名の願

たとい我、仏を得んに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、我が名を称せずんば、正覚を取らじ。(『大無量寿経』)

に言及した部分(黄色文字)

諸仏称名の願と申し、諸仏咨嗟の願と申し候なるは、十方衆生をすすめんためときこえたり。
又、十方衆生の疑心をとどめんりょうときこえ候。
弥陀経の十方諸仏の証誠のようにてもうすべきにあらず候。

であるが、専琳寺本型では

諸仏称名の願ともうし、諸仏咨嗟の願ともうしそうろうなるは、十方衆生をすすめんためときこえたり。
また、十方衆生の疑心をとどめん料ときこえてそうろう。
『弥陀経』の十方諸仏の証誠のようにてきこえたり。

(第十七願は衆生を勧め、その疑心をとどめるためのものであり、『阿弥陀経』の説く諸仏証誠の様子からもそれが知られる。)

であった文脈が、古田氏の言う蓮光寺本型では

(第十七願は『阿弥陀経』の諸仏証誠の「やう」Aで言うべきではない。)

という意になる。

しかし、親鸞に先立って法然が『三部経大意』に、

その名を往生の因としたまえることを、一切衆生にあまねくきかしめんがために、諸仏称揚の願をたてたまえり。第十七の願これなり。
このゆえに、釈迦如来のこの土にしてときたまうがごとく、十方におのおの恒河沙の仏ましまして、おなじくこれをしめしたまえるなり。(『定親全』6写伝篇(2)、9〜10頁)
として、『阿弥陀経』に説かれる諸仏の証誠は第十七願を根拠とするという了解を示しているし、親鸞も『唯信鈔文意』において同様の了解を示している。

おおよそ十方世界にあまねくひろまることは、法蔵菩薩の四十八大願の中に、第十七の願に、十方無量の諸仏にわがなをほめられん、となえられんとちかいたまえる、一乗大智海の誓願、成就したまえるによりてなり。
『阿弥陀経』の証誠護念のありさまにて、あきらかなり。
証誠護念の御こころは、『大経』にもあらわれたり。
また称名の本願は、選択の正因たること、この悲願にあらわれたり。
                             (『定親全』3和文編、161〜2頁)
また、『浄土和讃』「弥陀経意讃」において、

十方恒沙の諸仏は
 極難信ののりをとき
 五濁悪世のためにとて
 証誠護念せしめたり

諸仏の護念証誠は
 悲願成就のゆえなれば

 金剛心をえんひとは
 弥陀の大恩報ずべし(『定親全』2和讃篇、52頁)

と説いているが、この「悲願」とは「その名を往生の因としたまえることを一切衆生に普く聞かしめ」、その証誠をもって「十方衆生の疑心をとどめ」、信心を守護せんと諸仏の称名を誓った「大悲の願」(「行巻」、『定親全』1、17頁)、すなわち第十七願と取るべきではないだろうか。

蓮光寺本型に対して専琳寺本型第3通の当該箇所には、

諸仏称名の願ともうし、諸仏咨嗟の願ともうしそうろうなるは、十方衆生をすすめんためときこえたり。
また、十方衆生の疑心をとどめん料ときこえてそうろう。
『弥陀経』の十方諸仏の証誠のようにてきこえたり。
詮ずるところは、方便の御誓願と信じまいらせそうろう。
……
               (『御消息集』(広本)第10通、『定親全』3書簡篇、155頁)

とあり、第十七願が「方便の御誓願」と位置付けられている。

古田氏は、親鸞の思想体系において「方便の御誓願」とは、「化身土巻」に、

これに依って方便の願を案ずるに、仮あり真あり、また行あり信あり。願は、すなわちこれ臨終現前の願なり。行は、すなわちこれ修諸功徳の善なり。信は、すなわちこれ至心発願欲生の心なり。(『定親全』1、287頁)

と記された第十九修諸功徳の願を指す語であって、「真実の行願」(「行巻」、『定親全』1、84頁)である第十七願に用いられるべき用語ではない
したがって「錯乱」は専琳寺本型にこそある、としている。(前掲書、293〜4頁参照)

第十八願成就の真実信心へ「誘引」(「化身土巻」、『定親全』1、269頁)する意味で親鸞は、修諸功徳を勧める第十九願を「方便の願」と位置付けているが、「方便」の語には当然それ以外の意味もある。

例えば聖覚は『唯信鈔』に、

まず第十七に諸仏にわが名字を称揚せられんという願をおこしたまえり。
この願、ふかくこれをこころうべし。
名号をもって、あまねく衆生をみちびかんとおぼしめすゆえに、かつがつ名号をほめられんとちかいたまえるなり。
しからずは、仏の御こころに名誉をねがうべからず。
諸仏にほめられて
、なにの要かあらん。 (
『定親全』6写伝篇(2)、45頁)
と説いて、名誉を願う必要のない阿弥陀仏があえて諸仏に「名号をほめられん」と願ったのは「あまねく衆生をみちびかんとおぼしめすゆえ」の方便(てだて)であるとしているし、親鸞は、
釈迦弥陀は慈悲の父母
 種種に善巧方便し
 われらが無上の信心を
 発起せしめたまいけり(『高僧和讃』、『定親全』2和讃篇、114頁)
として、衆生の信心発起の背景に二尊の善巧方便があると説いている。
その種々の方便の中には第十七願建立の弥陀の大悲の「方便」もあると考えるべきではないだろうか。

また、専琳寺本型第3通は、この後
念仏往生の願は、如来の往相回向の正業正因なりとみえてそうろう。
まことの信心あるひとは、等正覚の弥勒とひとしければ、「如来とひとし」とも、諸仏のほめさせたまいたりとこそ、きこえてそうらえ。
            (『御消息集』(広本)第10通、『定親全』3書簡篇、155〜6頁)
と続く。

この部分で親鸞は、「衆生の疑心をとどめ」る「諸仏の証誠」とはつまりは「まことの信心あるひとは、……『如来とひとし』」 (真実信心の人は……如来と等しい)と諸仏がほめ称えることである、と述べていると思われる。

専琳寺本型第3通の冒頭からここまでを見てみると、
諸仏称名の願ともうし、諸仏咨嗟の願ともうしそうろうなるは、十方衆生をすすめんためときこえたり
また、十方衆生の疑心をとどめん料ときこえてそうろう
『弥陀経』の十方諸仏の証誠のようにてきこえたり
詮ずるところは、方便の御誓願と信じまいらせそうろう。
念仏往生の願は、如来の往相回向の正業正因なりとみえてそうろう。まことの信心あるひとは、等正覚の弥勒とひとしければ、「如来とひとし」とも、諸仏のほめさせたまいたりとこそ、きこえてそうらえ
とあって、「きこえたり」「きこえてそうろう」の語が連続している。
この点から見ても、「十方衆生をすすめんためときこえたり」から「まことの信心あるひとは、……諸仏のほめさせたまいたりとこそ、きこえてそうらえ」までが第十七願に対する解説部分、すなわち親鸞の了解(「……と私(親鸞)はお聞かせいただいている」)を述べた箇所であると判断できる。

また、専琳寺本型第3通ではこの後に位置する

また、弥陀の本願を信じそうらいぬるうえには、義なきを義とすとこそ、大師聖人のおおせにてそうらえ。
かように義のそうろうらんかぎりは、他力にはあらず、自力なりときこえてそうろう。……
他力には、しかれば、義なきを義とすとそうろうなり。
このひとびとのおおせのようは、これにはつやつやと、しらぬことにてそうらえば、とかくにもうすべきにあらずそうろう。(同上)

について、古田氏は専琳寺本型の場合、「かように義の候らん」の「かように」、「この人々の仰せ」の「この」の指示対象・被指示語が書面上に現れていないとしている。(前掲書、295〜7頁参照)

しかし、末尾の「慶西御坊御返事」から知られるように、この第3通は慶西の書状への返報であり、慶西からの書状にあった「この人々」が「かように義のそうろうらん」――念仏に関して何らかの「義」(解釈)を立てる――ことを受けて、「他力には義なきを義とす」との法然の法語の解説が展開していると思われる。
「この人々」の「義」の内容が慶西の書状からだけではよく理解できないのでこれ以上は言えない、というのが「この人々の仰せの様は、これにはつやつやと知らぬことにて候えば、とかくに申すべきにあらず候」という記述であると筆者は考える。

次に蓮光寺本型の第4通

一 むさし(武蔵)よりとて、しむしの入道どのともうす人と、正念房ともうすひとの、おおばん(王番)にのぼらせたまいて候とおわしまして 候。
みまいらせて候。
御念仏のこころざしおわしますと候えば、ことにうれしうめでたくおぼえ候。
御すすめと候、かえすがえすうれしうあわれに候。
なおなお、よくよくすすめまいらせて、信心かわらぬようにひとびとにもうさせたまうべし。
如来の御ちかいのうえに、釈尊のみことなり。
また、十方恒沙の諸仏御証誠なり。
信心はかわらじとおもい候えども、ようよう(様々)きこえたり
せん(詮)ずるところは
方便の御誓願と信じまいらせて候
念仏往生の願は
如来の往相回向の正業正因なりとみえて候
まことの信心あるひとは
等正覚の弥勒とひとしければ「如来とひとし」とも諸仏のほめさせたまいたりとこそきこえて候え
また
弥陀の本願を信じ候いぬるうえには義なきを義とすとこそ大師聖人のおおせにて候え
かように義の候らんかぎりは、他力にはあらず
自力なりときこえて候
又、他力ともうすは
仏智不思議にて候なるときに煩悩具足の凡夫の無上覚のさとりをえ候なることを仏と仏との御はからいなり
さらに行者のはからいにあらず

しかれば
義なきを義とすと候なり
義ともうすことは、自力のひとのはからいをもうすなり。
他力には、しかれば義なきを義とすと候なり。
この人々のおおせのようは
これにはつやつやとしらぬことにて候えばとかくにかわりあわせたまいて候こと、ことになげきおもい候。
よくよくすすめまいらせもうすべく候。
あなかしこ、あなかしこ。
 
九月七日     親鸞 在判
性信御房

念仏のあいだのことゆえに、御さた(沙汰)どものようよう(様々)にきこえ候に、こころやすくならせたまいて候と、この人々の御ものがたり候えば、ことにめでとう、うれしう候。
なにごともなにごとも、もうしつくしがたく候。
いのち候わば、又々もうしそうろうべく候。
               (蓮光寺本、古田、前掲書、707〜8頁、下線部が336文字)

であるが、「方便の御誓願」に関する箇所は、
信心はかわらじとおもい候えども、ようようきこえたり。
せんずるところは、方便の御誓願と信じまいらせ候。
となり、この文を古田氏は

「信心について、様々に惑乱しているようだが、ひっきょうするところ「臨終現前」「修諸功徳」「至心発願欲生」をもって特徴づけられる「方便の御誓願」たる第十九願の内包せる姿が現前しているもの、と信じているので、何も驚くことはない」
                                           (前掲書、294頁)

という意であるとしている。

これに対して専琳寺本型第4通では問題の箇所は、

なおなお、よくよくすすめまいらせて、信心かわらぬ様に人々にもうさせたまうべし。
如来の御ちかいのうえに、釈尊の御ことなり。
また、十方恒沙の諸仏の御証誠なり。
信心はかわらじとおもいそうらえども、様々にかわりあわせたまいてそうろうこと、ことになげきおもいそうろう。
よくよくすすめまいらせたまうべくそうろう。

となり、建長8年((1256・推定)正月9日付の真浄宛「書簡」にも、

慈信坊がようようにもうしそうろうなるによりて、ひとびとも御こころどものようようにならせたまいそうろうよし、うけたまわりそうろう。
かえすがえす不便のことにそうろう。……
奥郡のひとびとの、慈信坊にすかされて、信心みなうかれおうておわしましそうろうなること、かえすがえすあわれにかなしうおぼえそうろう。
             (『御消息集』(広本)第12通、『定親全』3書簡篇、148〜50頁)
と見られるように、「年ごろ、信ありとおおせられおうてそうらいけるひとびと」(同上、151頁)が善鸞の扇動によって動転していく様子に落胆しながらも、あくまで正しい信心を勧めるよう性信に懇請する親鸞の姿が察せられる。

また、古田氏は、蓮光寺本型であれば前述の指示語「かように」「この人々」は「信心はかわらじとおもいそうらえども、様々にきこえたり。詮ずるところは……」「武蔵よりとて、しむ しの入道どのともうす人と、正念房ともうす人……」等と述べた後に出現するので「必要にして十分な被指示語を有している」ことになると言う。(前掲書、297頁参照)

しかし、親鸞は「義なきを義とす」との法然の法語を、建長7年(1255、83歳)6月撰述の『尊号真像銘文』(略本)から正嘉2年(1258、86歳)12月の顕智聞書「獲得名号自然法爾」の法語まで多数の聖教・書簡で紹介している。
これらはいずれも関東で起きた有念・無念、一念・多念といった念仏に関する「義」の対立を背景に記されたものである。
これらの対立は法然の説いた「他力」の念仏、「仏智不思議」の本願に帰する念仏を「自力」(人間の努力的関心)によってさまざまに解釈すること――親鸞はこれを「本願の嘉号をもって己が善根とする「化身土巻」、『定親全』1、309頁)、あるいは「罪福を信ずる心をもって本願力を願求す」同上、295頁)る「仏智疑惑」の罪と捉えた――から生じたものであるが、あくまでも専修念仏、第十八念仏往生の願への信心を前提としたものであると言える。

これに対して第4通――専琳寺本型・蓮光寺本型を問わず――が伝える信心の動揺とは、善鸞の「親鸞が夜密かに自分に特別な――念仏以外の――法門を教えた」「第十八願を萎める花に譬えた」「善鸞義絶状」、『定親全』3書簡篇、40〜4頁参照等の言動によるものである。
当初造悪無碍の風潮を諌めるために遣わされたとも言われる善鸞の「異義」の内容は不明で、専修賢善的あるいは呪術的な念仏に奔ったとも言われるが、専修念仏という親鸞の信念の根幹を否定したものであったと思われる。

つまり「かように義の候らん」と「信心は……様々に聞こえたり」とでは、その背景となる東国の状況が異質であると見なければならず、「かように」の被指示語に関する古田の説明は正鵠を射てはいないと考えざるを得ない。

また古田氏は「この人々」とは王番のため上洛した「しむ(し)の入道・正念房」であるとするが、親鸞は彼らと直接面談していながら「この人々の仰せの様」を詳しくは知らないと言っていることになる。
親鸞は第4通の「追伸」に

念仏のあいだのことゆえに、御沙汰どもの様々にきこえそうろうに、こころやすくならせたまいてそうろうと、この人々の御ものがたりそうらえば、ことにめでとう、うれしうそうろう。(『定親全』3書簡篇、174頁)

と記しており、訴訟の顛末や性信が精神的に落ち着いたこと等、親鸞が彼らから詳しく聞かされたことが窺われるにもかかわらず、である。

以上のように、専琳寺本型が親鸞の思想体系に沿い歴史的背景から見ても矛盾がないのに対して、蓮光寺本型は矛盾に満ちている。
古田氏は蓮光寺本が『血脈文集』の最古形を伝えるとするが、すでに相当の「錯簡」が見られ、蓮光寺本の信頼性を疑問視せざるを得ない。

これらを踏まえた上で、古田氏の言う「建保4年(1216)7月に親鸞が性信に与えた自筆文書」を見ると、筆者はそこでも疑問に満ちた記述を多々目にするのである。


2. 「建保4年文書」の信憑性について
 
筆者がまず注目するのは、

建暦二年壬申歳正月廿五日
黒谷法然上人御入滅 春秋八十(蓮光寺本、古田、前掲書、709頁)

という師法然の命終に関する記述である。

ここでは法然の名が「黒谷法然上人」と記されているが、親鸞が師の名を記する際、果たしてこのように書くであろうか。

親鸞は「後序」において法然の命終を、

皇帝 諱守成 聖代、建暦辛の未の歳、子月の中旬第七日に、勅免を蒙りて、入洛して已後、、洛陽の東山の西の麓、鳥部野の北の辺、大谷に居たまいき。
同じき二年壬申寅月の下旬第五日午の時、入滅したまう。
奇瑞称計すべからず。
『別伝』に見えたり。(『定親全』1、381頁)
と記し、『高僧和讃』では、
本師源空のおわりには
 光明紫雲のごとくなり
 音楽哀婉雅亮にて
 異香みぎりに暎芳す(『定親全』2和讃篇、135頁)

道俗男女預参し
 卿上雲客群集す
 頭北面西右脇にて
 如来涅槃の儀をまもる(同上、136頁)

本師源空命終時
 建暦第二壬申歳
 初春下旬第五日
 浄土に還帰せしめけり(同上)

として、いずれも実名「源空」で記している。

「たとい、法然聖人にすかされまいらせて」(『定親全』4言行編(1)、5頁)等、口頭での発言を筆録した『歎異抄』はともかく、文書において親鸞が師を「法然」の房号で記する例はきわめて少ない。

「法然聖人」は「書簡」の中の3例、

法然聖人の御弟子のなかにも、われはゆゆしき学生なんどと、おもいたるひとびとも、この世にはみなようように法門もいいかえて、身もまどい、ひとをもまどわして、わずらいおうてそうろうなり。
      (『御消息集』(広本)第1通(『定親全』3書簡篇、75頁)、『末燈鈔』第20通)

法然聖人の御おしえを、よくよく御こころえたるひとびとにておわしましそうらいき。さればこそ、往生もめでたくおわしましそうらえ。
              (『御消息集』(広本)第3通(同上、108頁)、『末燈鈔』第19通)

法然聖人は、「浄土宗のひとは愚者になりて往生す」と候いしことを、たしかにうけたまわり候いしうえに、(『末燈鈔』第6通、同上、114頁)

と、『西方指南抄』の数例しかない。

「書簡」の用例は実名を憚った『歎異抄』の「会話調」に準じて考えるべきであろうし、『西方指南抄』における例も「法然聖人御説法事」「法然聖人御夢想記」「法然聖人臨終行儀」等、以前からあった文書・書簡を集成した中にあり、これを親鸞のオリジナルな用法と見なすわけにはいかない。

これらに対して「建保4年文書」は、古田氏によれば、元来法然の真影に記してあった「銘文」を親鸞が写して性信に与えたという付法・相伝の証文である。
そのような公的文書に親鸞が通常の用法に反して実名ではなく房号を記したであろうか。

そして親鸞は、法然に対する尊称としては「上人」でなく、すべて「聖人」を用いている。

「黒谷」に関しては『尊号真像銘文』(広本)に、

比叡山延暦寺寶幢院黒谷源空聖人の真像……(『定親全』3和文篇、106頁)
との用例があるが、ここでも「源空」「聖人」である

また、法然の没年齢が「春秋八十」と記されているが、親鸞真蹟の専修寺蔵『見聞集』第二冊には、「聖覚法印表白文」「御念仏之間用意聖覚返事」の文に続いて、

安居院法印御入滅年 文暦二年□未三月六日 御年七十一(『親真集』9、153頁)
との書き込みがあり、聖覚の没年齢は「御年……」と記されている。
(ただし、文暦2年(1235、親鸞63歳)6月19日書写の『唯信抄』ひらがな本――ひらがな本は『見聞集』の袋綴じを切り開いた紙背に記されている――奥書の上欄には「文暦二年乙未三月五日御入滅也」(『親真集』8、228頁)とあり、実際の聖覚の没年齢は69歳である。)

つまり、この「黒谷法然上人御入滅 春秋八十」は、通常の親鸞の語法に従えば「黒谷源空聖人御入滅 御年八十」と書かれねばならないのではないだろうか。

この点に対して、以上のような親鸞の用語法は、あくまで聖教・書簡類の現存する50歳代後半以降のものであって、建保年間ならば「法然」「上人」「春秋八十」といった例外的表記もあり得るとの反論がなされるかもしれない。
しかし、古田氏は「後序」は諸々の事件が起きた当時の親鸞の記録文書の集成であるとしており、法然を「空(源空)」と記した前掲の命終記事も、当然当時の記録文書の様態を残していることになる。B

また、「建保4年文書」は、法然の命終年時を「建暦二壬申正月廿五日」として、「〈元号〉○年〈干支〉歳○月○日」という形式で、親鸞が性信に文書を下付した日を「建保四七月下元日奉書之」、原型が「建保四丙子」(前掲書、324頁・註(43)参照)だったとしても「〈元号〉〈干支〉歳○月○日」という形式で記しているが、親鸞の通常の年時記載にこのような例があるだろうか。

『親鸞聖人真蹟集成』に拠れば、親鸞が干支付きで年時を記載する際には「康元二歳丁巳二月九日ノ夜寅時……」(草稿本『正像末和讃』、『定親全』2和讃篇、151頁)、「正嘉元年丁巳壬三月一日」(同上、152頁)のような「〈元号〉○年(もしくは「歳」)〈干支〉○月○日」という形式、あるいは、「康元元丙辰十月卅日書之」(『西方指南抄』下巻本奥書、『定親全』5、290頁)、「康元元丙辰十一月八日」(下巻末奥書、同上、367頁)のような「〈元号〉○(「年」も「歳」もなし)〈干支〉○月○日」の形式、「宝治第二戌申歳初月下旬第一日」(草稿本『浄土和讃・高僧和讃』奥書、『定親全』2和讃篇、139頁)、「建暦第二壬申歳初春下旬第五日」(「源空讃」、同上、136頁)のような「〈元号〉第○〈干支〉歳○月○日」の形式であって、「建保4年文書」のような形式はいずれも存在しなかった。

また、「下元日」(21日)の表記についても、前掲の「下旬第一日」(『定親全』2和讃篇、139頁)、「寛元元年癸卯十二月廿一日」(「いや女譲状」、『親真集』4、400頁)という事例はあっても、他にこのような例はない。

つまり法然命終記事等から見る限り、「若我成仏 十方衆生」以下の一連の記述が親鸞の自筆文書であるとする古田氏説の信憑性は著しく低下したと言わねばならない。

これを、法然の真影にあった銘文・命終年時等を建保4年(1216)7月下旬に性信が親鸞の許可の下に写したもの――「愚禿親鸞」の署名を含まない――と見ることもまた不可能である。
「建保4年文書」は明らかに親鸞・性信の手によるものではなく、性信が親鸞から真影を申し預かったという記述すら疑わざるを得ないのではないだろうか。

(もちろん蓮光寺本は後代の写本であるから転写の際に語句が変化した可能性はある。
実際、専琳寺本の当該箇所は「建暦第二壬申」「黒谷法然聖人」(『定親全』3書簡篇、178〜9頁)と親鸞の記載方式に順じており、恵空本は「建保四丙子歳」(『真聖全』2、723頁)と干を補っている。
しかし古田氏は、蓮光寺本の書写者は不注意の逸脱はともかく私意をもって「原本」を改変しない(前掲書、272頁参照)――不注意による語句の脱落や位置の移動はあっても語句そのものは忠実に書写している、の意であろうか――としており、そう考えた場合、『血脈文集』の最古形をそのまま伝えるのが蓮光寺本だとする古田氏説自体が揺らぐことになる。 )

だとすれば、古田氏が性信による「建保4年文書」の解説だとした、直前の「右以此真文性信所尋申早預彼本尊也 源空聖人奉親鸞上人本尊銘文」の文にも疑問が生じてくる。

この文にはまず「右この真文をもって性信尋ね申す所に、早く彼の本尊を預かるなり」(法然の真影にある「真文」について尋ねた性信が親鸞からその真影を預かった)とある。

18世紀中葉成立の坂東報恩寺蔵『報恩寺開基性信上人伝記』に拠れば、性信は親鸞の吉水期以来の弟子――元久元年(1204)、性信18歳の春、吉水の法然を訪ねその折親鸞に師事――であり、越後への流罪・常陸への移住の際にも同道したという。C
伝承の通り吉水以来の知己であれば、選択附属・真影図画の実情を直接見聞きした可能性もあるし、伝承の真偽は別としても親鸞が送った多数の「書簡」とそこで示した信頼ぶりから見て、性信が「真影の銘」の由来を尋ねることも充分にあり得たであろう。

にもかかわらずその性信が、なぜ「源空聖人が親鸞上人に譲り奉る本尊の銘文」という表現を取ったのであろうか。

法然は親鸞に真影の「原本」を預けてそれを模写することを許したのであって「譲った」わけではない。
また「奉る」という語は、法然が親鸞に対してへり下っている、師である法然が弟子である親鸞より下位に位置することを意味している。
つまりこの「源空聖人が親鸞上人に譲り奉る」の記述は、真影図画の詳しい実情を知らない人物によってなされた可能性も考えられるのではなかろうか。
(古田氏は「譲る」には言及しておらず、「奉る」は「東国のいなかびとたる素朴なる筆者(性信)」の「誤用」(前掲書、266〜7頁)としているが、確たる根拠は何も示しておられない。)

次に「本尊」の語であるが、『尊号真像銘文』の書名、あるいは前掲の「比叡山延暦寺寶幢院黒谷源空聖人の真像」の語からも知られるように、道場の本尊に用いるべく名号・真影を授与しながらも親鸞はそれらを「本尊」とは呼んでいない。
(「『教行証』の末……」として『血脈文集』に引用された「後序」の文にも「真影の銘」とある。)

『西方指南抄』には、上巻本「法然聖人御説法事」に4回「本尊」の語が登場するが、いずれも仏の容像を描写した木像もしくは仏画(曼荼羅)を指している。

まず、阿弥陀如来を始めとした十方三世一切の諸仏の身が常住不変の相を表す金色であるという話題の中で、
ただし、真言宗の中に五種の法あり。
その本尊の身色、法にしたごうて各別なり。
しかれども暫時方便の化身なり、仏の本色にはあらず。(『定親全』5、5頁)

として真言宗の五種の「本尊」について言及し、次に天竺の鶏頭摩寺の五通の菩薩が娑婆世界の衆生の往生の行のための「本尊」を請い、その求めに応じて現われた化仏五十体を写して「鶏頭摩寺の五通の菩薩の曼陀羅」として世に広めたという逸話の中で、

次にまた、十方の行者の本尊のために、小身を現じたまえる化仏あり。……
娑婆世界の衆生、往生の行を修せんとするにその本尊なし、(同上、8〜9頁)

と記し、『日本往生伝』にその因縁が記される「智光の曼荼羅」を「世間に流布したる本尊」(同上、9頁)と呼んでいる。

『尊号真像銘文』は建長7年(1255)6月成立の「略本」が覚信に、正嘉2年(1258)6月成立の「広本」が顕智にそれぞれ授けられているし、『西方指南抄』上巻本は康元2年(1257)正月2日に完成し、上洛中の真仏によって3月5日に書写され、その後真蹟本は真仏に、真仏書写本は覚信に与えられている。

古田氏はこの「本尊」の語を、「尊号真像」に代えて性信が用いた真宗史上最初の事例前掲書、323〜4頁・註(42)であるとするが、 その根拠は「建保4年文書」を親鸞の真作とする氏自身の主張――これがきわめて疑わしいものであることはすでに述べた――以外にはない。
門弟集団がはたして師の在世中に、その用語例に反して、「本尊」の語を用いたであろうか。

定朝作の三尺の阿弥陀如来立像を「本尊」としていた法然Dであるが、建久2年(1205)正月朔日付の「書簡」では、勢観房源智に授けた「金色の名号」を奪った法力房蓮生(熊谷直実)に「墨のまゝ」(墨書)の「名号」を与えることを約している。
ただし、この「書簡」ではそれらは「本尊」とは呼ばれていない。E

しかし、親鸞と同い年の明恵(1173―1232)は建保2年(1214)、「南無同相別相住持仏法僧三宝」を中心とする所謂「三宝礼の名字本尊」を創出し、翌年11月制作の『三時三宝礼釈』でこれを「本尊」と位置付けている。F
また、日蓮(1222―1282)は親鸞没後の文永8年(1271)に「南無妙法蓮華経」の題目を中心とした所謂「曼荼羅本尊」を初めて制作し、「末代悪世の凡夫は……法華経の題目を以て本尊とすべし」Gと主張している。

これらによれば経文等を抽出した文字本尊は早くに「本尊」と呼ばれたことが知られる。

初期真宗教団において本尊に用いられた所謂光明本尊であるが、愛知県妙源寺蔵の三幅一具の「光明本尊」はその讃文が正嘉2年(1258)に亡くなった真仏の筆であり、親鸞の在世中にすでに光明本尊が制作されていたことが知られる。H
ただし、当時の呼称は「光明本尊」ではなく、「光明本」であったという。I

次に人師の肖像である「真影」であるが、 法然の高弟証空は、元久元年(1204)の「書状」(大和興善寺阿弥陀如来像胎内文書)において、

さておおせ候いたりし御らいの事の、かない候わざりしこそ、まめやかにくちおしく候え。(『鎌倉遺文 古文書編』3、145頁)

と、法然の真影を「御えい(影)」と呼んでいるJし、親鸞の妻恵信尼は弘長3年(1263)2月10日付の「書簡」において

又、あの御影の一幅、欲しく思いまいらせ候う也。
                     (『恵信尼書簡』第4通、『定親全』3書簡篇、193頁)

と、夫親鸞の肖像を「御えい(影)」と呼んでいる。

法然没後100年頃、徳治2年(1307)から十余年をかけて舜昌が制作したと伝えられる『法然上人行状絵図」巻四十八には、空阿弥陀仏が法然の真影を「本尊」としたと記されている。

空阿弥陀仏は、上人をほとけのごとくに崇敬し申されしかば、右京権大夫隆信の子、右京大夫信実朝臣に、上人の真影をかかしめ、一期のあいだ、本尊とあおぎ申されき。当時知恩院に安置する、絵像の真影すなわちこれなり。(『法伝全』315頁)                                 

親鸞の曾孫覚如は『改邪鈔』(建武4年・1337成立)において「帰命尽十方無碍光如来」の名号こそが親鸞の依用した「真宗の御本尊」であるとし、「絵像木像の本尊」や「三国伝来の祖師、先徳の尊像」を安置することはあっても、「道俗男女の形体」を描いた「絵系図」を安置して崇めてはならないとしている。

いまの真宗においては、もっぱら自力をすてて他力に帰するをもって、宗の極致とするうえは、三業のなかには口業をもって他力のむねをのぶるとき、意業の憶念帰命の一念おこれば、身業礼拝のために、渇仰のあまり瞻仰のために、絵像木像の本尊をあるいは彫刻しあるいは画図す。
しかのみならず、仏法示誨の恩徳を恋慕し仰崇せんがために、三国伝来の祖師・先徳の尊像を図絵し安置すること、これまたつねのことなり。
そのほかは祖師聖人の御遺訓として、たとい念仏修行の号ありというとも、「道俗男女の形体を面々各々に図絵して所持せよ」という御おきて、いまだきかざるところなり。
しかるに、いま祖師・先徳のおしえにあらざる自義をもって、諸人の形体を安置の条、これ渇仰のためか、これ恋慕のためか、不審なきにあらざるものなり。

本尊なおもて『観経』所説の十三定善の第八の像観よりいでたる丈六八尺随機現の形像をば、祖師あながち御庶幾御依用にあらず。
天親論主の礼拝門の論文、すなわち「帰命尽十方無碍光如来」をもって、真宗の御本尊とあがめましましき。
いわんや、その余の人形において、あにかきあがめましますべしや。末学自己の義すみやかにこれを停止すべし。(『定親全』4言行編(1)、130〜2頁)

真影や絵系図を「本尊」と呼んだとする記述こそないが、これらが当時「本尊」と呼ばれており、そのような状況であったからこそあえて「真宗の本尊は名号」と強調しなければならなかったとも考えられる。

その長子存覚(1290―1373)が建武元年(1334)から応安4年(1371)にかけて記した『存覚袖日記』になると、絵像・名号・光明本のみならず祖師・先徳の真影・連座像もまた「本尊」と記されており、当時はそれらも「本尊」と呼ばれていたことが知られる。

佐々木妙円本尊如此書了
天竺震旦高僧真像貞治二歳癸卯三月十五日 画工法橋増賀筆也……
本尊自錦織寺所預置佐々木常楽寺妙円也一行……(『真史集』1、894頁)

遠野性空房本尊 性観房 文和三甲午
上銘下文無之 二幅等身大無量寿経言……又言……又言……已上十五行
                                           (同上、899頁)

前者は佐々木(地名)の常楽寺妙円が錦織寺から預け置かれて「本尊」とした画工増賀法橋作の「祖師連座像」を貞治2年(1363)3月15日に、後者は遠野(地名の性空房が「本尊」とした「性観房の影像」――上下に同じ大きさの二幅の色紙が貼られているが銘文は上部のみに『大経』の3文が15行にわたって書かれている――を文和3年(1354)に、存覚がそれぞれ記録したものである。

性信が祖師の真影に言及した文献が他にない以上、法然の真影を「本尊」と記したのが性信でないとは断定できない。
しかし、前述の考察とも考え併せると、「右以此真文……本尊銘文」を記したのが性信ではなく、真影を「本尊」と呼ぶ慣習が存在した覚如・存覚期以降の人物である可能性は高いと筆者は思わざるを得ないのである。

 
3. 『血脈文集』の成立について
 

『血脈文集』の成立について古田氏は、善鸞事件によってリーダーとしての資質を問われた性信が親鸞面授としての自らの、さらには法然直弟としての親鸞の「正統性」を証明すべく正嘉元年(1257)以降に編集したとしている 。前掲書、298〜304頁参照)

しかし、筆者はそれを首肯しない。
その理由は、性信の編集だとすれば当然収められねばならないはずの性信宛の「書簡」3通が『血脈文集』には収められていないからである。

一通めは、建長8年(1256・推定)6月1日の性信からの「書簡」に対する7月9日付の親鸞の「返書」であり、親鸞はこの「返書」において、

このうったえのようは、御身ひとりのことにはあらずそうろう。
すべて、浄土の念仏者のことなり。……
性信坊ひとりの、沙汰あるべきことにはあらず。
念仏もうさんひとは、みなおなじこころに、御沙汰あるべきことなり。
御身をわらいもうすべきことにはあらずそうろうべし。……
念仏もうさんひとは、性信坊のかたうどにこそ、なりあわせたまうべけれ。
                                   (『御消息集』(広本)第7通、『定親全』3書簡篇、127〜8頁)

として鎌倉での訴訟における性信への支持を明確に述べている。

また、同じく建長8年7、8月頃と推定される「書簡」の文面では、源藤四郎から性信の近況を聞いた親鸞が、

念仏のうったえのこと、しずまりてそうろうよし、かたがたよりうけたまわりそうらえば、うれしくこそそうらえ。
いまは、よくよく念仏もひろまりそうらわんずらんと、よろこびいりてそうろう。
これにつけても、御身の料はいまさだまらせたまいたり。
念仏を御こころにいれてつねにもうして、念仏そしらんひとびと、この世のちの世までのことを、いのりあわせたまうべくそうろう。……(同上、第13通)

として、訴訟後の平静を回復した東国の状況を喜びながら、性信の労を労って「汝の往生は疑いない」とまで讃え、念仏を誹謗する人々のことをも視野に入れつつ一層念仏の自信教人信に励むように勧めている。

いずれも『血脈文集』所収の「書簡」類とほぼ同時期に書かれ、親鸞の深い信頼を伝えているにもかかわらず、性信はあえて『文集』に入れなかった、と古田氏は言われるのである。J

そして最後の一通は、建長8年(1256)5月29日付の善鸞宛「義絶状」である。

この善鸞宛「義絶状」には、性信に善鸞を義絶した旨を伝えた「書簡」(『血脈文集』第2通)と同日に書かれ、6月27日に到着した旨が注記されている。

この「善鸞義絶状」は嘉元3年(1305)7月27日付の顕智による写ししか現存せず、善鸞に敵対した側にのみ残されていることから、後世の、つまり顕智による偽作であるとの疑いが出されている。

しかし、当時の義絶状は親から子にのみ渡される私的な文書ではなく、周囲に回覧し証判まで請い、親元で保管され将来に備える公式文書の性格をもつものであったという。K

また、平雅行氏に拠れば、中世文書には「文書の宛先と受給者との乖離」という原則があり、「義絶状」に「慈信御房」の宛先があってもそれ(原本)が直接善鸞の元に届けられたわけではない。

当時善鸞と性信らは係争中であり、善鸞に「義絶状」を直接渡せば証拠隠滅の危惧すらあった。
親鸞は5月29日に性信に「書簡」とともに「義絶状」を送り、6月27日に2通とも性信の元に到着。
性信は裁判の場に証拠として「義絶状」の原本(正文)を提出し善鸞には写し(案文)を渡した。
性信の手元に残った原本は善鸞の義絶を周知させるため真仏ら東国門弟に回覧され、そこでも写しがとられた。
その写しを嘉元3年に顕智が書写したものが専修寺に伝来する「善鸞義絶状」であると平氏は結論している。L

つまり古田氏説に従えば、『血脈文集』は性信の編集でありながら、性信が親鸞から送られ、善鸞事件で揺らいだ自らの威信を回復する上できわめて有効な証文を3通も欠いていることになるのである。
(『文集』編纂時にこれらが編集者――性信ではない――の手元になかった、と考える方がむしろ妥当ではないだろうか。)

古田氏は『血脈文集』は唯善事件の後に性信系の横曽根門徒によって編纂されたとする通説を否定して、親鸞在世中に性信自身によって編集されたとした。
しかし、以上の考察の結果、その古田氏説もまた疑わしいものとなった。

では、誰が、いつ、いかなる目的で『血脈文集」を編集し、「建長4年文書」を偽作し挿入したのであろうか。

筆者は「建保4年文書」の一段を目にした時、「真文」「本尊の銘文」と言いながら、実際の「真影の銘」である名号と善導『往生礼讃』の本願加減の文の外に、銘文ではない「釈善信」の「名の字」と法然の命終記録が書かれていることに違和感を覚えざるを得なかった。

しかし、この「釈善信」が、同じ第五段の「流罪記録」の

       流罪越後国、
善信

       俗姓、藤井善信、……
(蓮光寺本 、古田、前掲書708頁)

と対応していると考えれば得心がいく。

「釈善信」とはつまり、法然から「本尊」を譲られ、法然と共に流罪となり、その命終記録を「本尊」に書き入れた「善信」であり、性信はその「善信」に「本尊の銘文」(真文)について「尋ね申し」「早くに彼の本尊を預か」ったという「法然―親鸞―性信」の「三代伝持」の主張がこの一段には込められているのではないだろうか。

蓮光寺本にはいまだ「法然―親鸞」の関係しか記されておらず、唯善事件以後、「法然―親鸞―性信」の三代にわたる血脈伝持を主張するために横曽根系門徒集団が改作したものが専琳寺本であると古田氏は主張したが、蓮光寺本もまた同じ目的のもとに編集されていると考えるべきではないだろうか。

古田氏は

(1)蓮光寺本が『血脈文集』の最古形を伝えている。
(2)『血脈文集』は性信によって親鸞生存中(正嘉年間)に編集された。
(3)専琳寺本は後代の性信系集団内における「改作本」である。

と主張したが筆者は、

(1)蓮光寺本には書写以前に生じた看過し難い「錯乱」がある。
(2)『血脈文集』は性信の編集ではなく、没後の後代に成立したものである。
(3)蓮光寺本自体がすでに「三代伝持」を主張する意図をもって編集されている。

と判断せざるを得ないのである。
 

    おわりに
 

『血脈文集』が通説の通り、東国での発言力を失いつつある性信系門徒集団によって編集され、「建保4年文書」もその折「三代伝持」主張の意図をもって挿入されたのだとしたら、その記述は制作当時の「時代常識」を反映することになる。
(すでに筆者は「本尊」の語にそれが見受けられることを指摘した。)

つまり、「建保4年文書」中の

若我成仏 十方衆生 称我名号
下至十声 若不生者 不取正覚
彼仏今現 在成仏   当知本誓
重願不虚 衆生称念 必得往生
  南無阿弥陀仏       釈善信 (古田、前掲書、709頁)

の部分も、親鸞から性信、そして横曽根系門徒へと実際に相伝されてきた「真影の銘」と「名の字」ではなく、その前に引かれた「後序」の文の記述から導き出されてきたものであり、「釈善信」の「名の字」も元久2年(1205)に実際に法然が記したものではなく、『血脈文集』にこの一段を挿入した人物の「名の字」理解を反映したに過ぎないと筆者は考える。

『血脈文集』の成立が唯善事件集結の延慶2年(1309)以降であるとすれば、覚如が『拾遺古徳伝』において、

またゆめのつげあるによりて、綽空の字をあらためて、おなじき日これも聖人真筆をもて名の字をかきさずけしめたまう。
それよりこのかた善信と号すと。云々

と「善信」改名説を唱えた正安3年(1301)よりも後である。

また、「法然―親鸞―性信」の「三代伝持」の主張が覚如の「法然―親鸞―如信」の「三代伝持・血脈相承」に対抗したものであるとすれば、『血脈文集』の成立は覚如がそれを強調した『口伝鈔』M(元弘元年・1331成立)や『改邪鈔』N(建武4年・1337成立)以降となる。
(『血脈文集』の題名自体をその対抗意識の象徴と見ることも可能である。)

また、正和年間(1312〜7)頃に越前の天台宗長泉寺別当孤山隠士が記したとされる『愚闇記(愚暗記)』には、

当世一向念仏して在家の男女を集め、愚禿善信と云う流人の作したる和讃を謡い、長じて同音に念仏を唱うる事有り……(『真史集』4、719頁)

とあり、当時、「愚禿善信」の呼称が世間一般に流布していたことが知られる。

東国門弟集団が「善信」説の影響下にあったとすれば『血脈文集』編集の際に「釈善信」の「名の字」が挿入されたとしても不思議ではないし、むしろ「釈善信」の記述によって当該文書の信憑性が増すことにもなったのではないだろうか。
(まして唯善を支持した横曽根系門徒集団に最も激しい批難を浴びせたのは、唯善と対立した覚如とその支援者に他ならないのである。)

古田氏説の無批判な踏襲に立って、蓮光寺本の「釈善信」の記述を、覚如・存覚が記した「善信」改名の伝承が横曽根門徒系にもあったことを示すものであるとする見解Oがある。
しかし、筆者はこれをむしろ覚如説に影響され、本願寺系への対抗上成立したものであると考える。蓮光寺本の記述は元久2年の親鸞の改名の「事実」を正しく伝えるものではない、と言えよう。
 

略号
『定親全』 ……『定本親鸞聖人全集』法蔵館、1969―70年。
『親真集』 ……『親鸞聖人真蹟集成』法蔵館、1973年。
『真聖全』 ……『真宗聖教全書』大八木書店、1980―5年復刻。
『昭法全』 ……『昭和新修法然上人全集』平楽寺書店、1955年。
『法伝全』 ……井川定慶編『法然上人伝全集』、1952年
『真史集』 ……『真宗史料集成』同朋舎、1974―82年。


@宮崎円遵『定本親鸞聖人全集』3書簡篇、「解説」251〜3頁、『真宗書誌学の研究』(『宮崎円遵著作集』6)141〜3頁参照。
A古田氏は『親鸞思想』に現代語訳を提示しておらず、「やう」をどう解釈したかは不明。
B古田氏はこの箇所を「法然没年(建暦2年)に近き時点(一周忌・三回忌等)における造文と思われる」(前掲書、140頁・註(27))としている。
C今井雅晴「親鸞の東国門弟と如信」(坂東性純、今井、赤松徹真、大網信融『親鸞面授の人びと――如信・性信を中心として』自照社、1999年)、26〜7頁参照。
D「本尊三尺弥陀、立像定朝」(「没後起請文」、『昭法全』784頁)
E「又勢観房へ書きてさずけ候。金色の名号あまりにほしさに、押しとらる由うけ給候。……
志はあわれに候ほどに、名号書きて参り候。
ついの歌は真如堂の如来よりさずけ給い候歌にて候。
金色にしたく候えども、いそぐ便宜にて、墨のまま参らせ候。」
                               (同上、1146〜7頁)
F「……爾れば諸仏菩薩、骨にとおり命にかえて衆生に授けんと願じ給える菩提の名字なれば、南無万相荘厳金剛界心等と誦じ連ねて礼し奉るに、身の毛よだち心いさむ渇仰の至りに、其の名字を書きて本尊とする也。」(『日本大蔵経』38、197頁)。
G「問云、末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定む可き(や)
答云、法花経の題目を以て本尊とすべし。」
 
(『本尊問答抄』 、
      『原典日本仏教の思想9 日蓮』岩波書店、1991年、332頁)
H『真宗重宝聚英』2(同朋舎、1987年)4〜5頁参照。
I「高祖親鸞聖人御在生のとき、末代の門弟等、安置のためにさだめおかるる本尊あまたあり、いわゆる六字の名号、不可思議光如来、無碍光仏等なり。
梵漢ことなれども、みな弥陀一仏の尊号なり。
このほか、あるいは天竺・旦の高祖、あるいは吾朝血脈の先徳等、おのおの真影をあらわされたり。
これによりて面々の本尊、一々の真像等を一鋪のうちに図絵して、これを光明本となづく。
けだし、これ当流の学者のなかに、たくみいだされたるところなり。」
                   (存覚『弁述名体鈔』『真史集』1、856頁)
J『鎌倉遺文』では当該箇所は「御らい」 となっているが、平松令三『歴史文化ライブラリー 親鸞』(吉川弘文館、1998年)121頁所載の『斎木一馬著作集』3所収「興善寺所蔵の源空・証空覚え書」の記述に従い、「御えい」と判断した。
K古田氏は「建長の弾圧時に親鸞から性信その他関東の門弟にあてられた書簡文書のうち性信は4書簡・4文書のみを撰択・摘出して『血脈文集』を編集した」(前掲書、300頁参照)、「『血脈文集』の眼目を「法然―親鸞―性信」の「三代伝持」の主張にあると見ると、これら2通の書簡がさしおかれて第3通(慶西宛て「書簡」)が存在する理由が説明できない」(327頁・註(60)参照)としている。
しかし、「さしおかれた」――あえて収めなかったと考えるよりも『血脈文集』成立時に編纂者の手元にはこれら2通がなかった――「慶西宛書簡」はあった――と考えた方が『文集』に収められていない理由として妥当だと思われる。
L『今昔物語』巻29、「幼児、盗瓜蒙父不孝語」(『日本古典文学大系・今昔物語5』、岩波書店、1963年、157〜8頁)参照。
M『歴史のなかに見る親鸞』(2011年)171〜184頁参照。
N「本願寺の鸞聖人、如信上人に対しましまして、おりおりの御物語の条々。」(『定親全』4言行編(1)、66頁)
O「右此抄者祖師本願寺聖人親鸞面授口決干先師大網如信法師之正旨、報土得生之最要也。余壮年之往日、忝従受三代黒谷・本願寺・大網伝持之血脈以降鎮蓄二尊興説之目足也。……」
                        (『定親全』4言行編(1)、173頁)P鶴見晃「親鸞の改名について――元久2年「親鸞」改名説への批判」(『宗教研究』367、2011年)


【付 記】

『定本親鸞聖人全集』3(1973年)「書簡篇解説・七 親鸞聖人血脈文集」には「性信の申し預る本尊の銘」に関して「この銘文は偽作であろうという説がある」(251頁)との記述がある。
この「銘文偽作説」について何かご存じの方があればぜひご教授を頂きたい。


『宗教研究』第376号(日本宗教学会・2013)掲載の論文を加筆補訂)


※文中、文献引用の際には読者の便をはかるため、漢文を書き下し文に、旧仮名遣いを現代仮名遣いに改めた。


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