法話ライブラリー   真宗大谷派 西念寺
 
『鳥取県歌人会報』第72号(2024年9月)寄稿原稿
 
 


「文覚をこそ打たんずる者なれ」

                         西行と文覚
 
  

願わくは花のしたにて春死なむ
             そのきさらぎの望月の頃

心なき身にもあはれは知られけり
             鴫立つ沢の秋の夕暮れ(西行『山家集』)

漂泊の歌人として後世に大きな影響を残した西行法師(1118~1190)ですが、叙情溢れる作品とは異なり、その実像は単なる「文弱の徒」ではなかったようです。

   
   
 
   
   【 西行法師像 】(MOA美術館所蔵)
   
 
  西行と同時代に文覚(生没年不詳)という僧がいました。
俗名は遠藤盛遠。
もとは院御所(上皇の御所)に詰めて警固や供奉に当たる「北面の武士」で、出家後は京都・神護寺の再興を後白河天皇に強訴して伊豆国に流され、同じく伊豆国蛭ヶ小島に流されていた源頼朝と知己を得たといいます。
先年放送のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の十三人』では、頼朝に「父義朝公のしゃれこうべ」と称した頭蓋骨を手に平家打倒を勧める怪しげな僧(演・市川猿之助)として登場していました。
   
   
   
   
  【 文覚上人像 】(神護寺蔵・東京国立博物館寄託)
   
   
 

頓阿『井蛙抄』(せいあしょう)に拠れば、この文覚は西行を

「一心に仏道修行に励むべき僧侶でありながら、風流などと称してあちらこちらで偉そうに和歌を詠み語るなどもっての他である」

と毛嫌いして、

「どこかで遇うことがあればその頭を打ち割ってやる」

と常々語っていたそうです。

「頭を打ち割ってやる」というあたり、まさに「荒法師」、強面の〝武闘派〟であったことが窺われ、どちらが「僧侶にあるまじき」なのかよくわかりません。

文覚の弟子たちはその言葉を耳にする度、

「西行と言えば天下の有名人。そんなことになったら大変だ」

と戦々恐々としていました。

そんな折、神護寺で法華会(ほっけえ=法華経の講義を行う法会)が催され、参衆の中には西行の姿もありました。

このことを文覚には絶対に知られてはならない、と弟子達が口をつぐんでいたにもかかわらず、その日の夕暮れ、当の西行が一夜の宿を求めて文覚の庵室に声をかけたのです。

どうなることかと固唾を呑んで見守る文覚の弟子達。
ところが明障子を開けて西行の顔を眺めた文覚は、

「どうぞお入りください」

と声をかけて西行を招き入れ、

「一度お目にかかりたいと思っておりました」

と親しげに語り合い、夜食の接待をし、翌早朝には食事も提供して西行を送り出したのでした。

ほっとした弟子達が文覚に対して

「日頃のおっしゃり様とずいぶん違うではありませんか」

と尋ねると、

「いふかいなの法師どもや。
 あれは文覚に打たれんずる者の面様(つらよう)か。
 文覚をこそ打たんずる者なれ」
(「もののわからぬ弟子達だな。
 西行の顔を見たか。
 あれがわしに打たれるような面構えか。
 むしろ文覚を打つであろう者だ)

と答えたそうです。

歌などにうつつを抜かした弱々しい優男を想像していた文覚の予想を遙かに上回る剛毅果断な西行がそこに居たのでしょう。
ちなみに西行の前身も鳥羽上皇に仕えた北面の武士佐藤義清(のりきよ)です。

西行は出家の際に衣の裾に取りついて泣く娘(4歳)を縁側から蹴落としたという逸話まであります。
出典は後代に成立した作者未詳の『西行物語』で実話とは思われませんが、たとえ後代の創作であるとしても、『井蛙抄』と共に、「歌に命を賭け、歌を己の仏道修行の道とする」西行の凄まじい「覚悟」と生き様を窺わせるに足る逸話であると私は考えます。

(『鳥取県歌人会報』第72号への寄稿エッセイに加筆)


『井蛙抄』巻第六・雑談
※『井蛙抄』(せいあしょう)、頓阿(とんあ / とんな、正応2年・1289文中元年/応安5年)。鎌倉時代後期から南北朝時代の僧・歌人)が著した歌論書。
写本によっては『水蛙眼目』とも呼ばれる。
二条家において最も重視されたものの一つ。
1360年〜1364頃に成立。
「文覚上人は、西行を憎まれけり。
 その故は、遁世の身とならば、一すぢに仏道修行のほか他事あるべからず、数寄を立ててここかしこにうそぶきありく条、憎き法師なり、いづくにて見合いたらば頭を打ちわるべきよし、常のあらましにてありけり。
  弟子ども
「西行は天下の名人なり。
 もしさることあらば珍事たるべし」
と嘆きけるに、或時、高雄法華会に西行参りて、花の陰など眺めありきける、弟子どもこれかまへて上人に知らせじと思ひて、法華会もはてて坊へ帰りたりけるに、庭に
「物申し候はむ」
といふ人あり。
 上人
「たそ」
と問はれたりければ、
「西行と申す者にて候ふ。
 法華会結縁のために参て候ふ。
 今は日暮れ候ふ。
 一夜この御庵室に候はんとて参りて候ふ」
と言ひければ、上人内にて手ぐすねを引いて、思ひつる事叶ひたる体にて、明り障子を開けて待ち出でけり。
 しばしまもりて、
「これへ入らせ給え」
とて入れて対面して、年頃承り及び候ひて見参に入りたく候ひつるに、御尋ね悦び入り候ふよしなど、ねんごろに物語りして、非時など饗応して、つとめてまた斎などすすめて帰されけり。
 弟子たち手を握りつるに、無為に帰しぬる事喜び思ひて、
「上人はさしも西行に見合ひたらば、頭打ち割らむなど、御あらまし候ひしに、ことに心閑かに御物語候ひつること、日ごろの仰せにはたがひて候ふ」
と申しければ、
「いふかいなの法師どもや。
 あれは文覚に打たれんずる者のつらやうか。
 文覚をこそ打たんずる者なれ」と申されける。」

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